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テモテの手紙第一6章6節ー10節

「最後の問い」
利得を得ようとする間違った信仰をパウロは警告するのです。それを糺そうと誰にも訪れる人生の終わりを見つめています。死について目を向けるのです。何を得ようと世を去る時は何も持っていくことができない。厳然たる事実です。最後に残るのは生まれた時の裸の自分です。人生を生きてきた自分自身です。終わりを迎える時にあなたは何を持っていますかとは主なる神は決してお問いにはなられないでしょう。

むしろ最後に尋ねられる質問は、あなたは神とともにどのように生きて来たのかです。人とともにどうやって生きてきたのか。残るものはそれだけなのです。それにお答えする責任が私たちにはあるのです。与えられた人生を何を得てきたかではなく何に捧げてきたかと言い換えてもいいでしょう。こういう生き方を内側から満たすのは神ご自身であって、物に執着することで益が得られるという人生観とはまったく異なります。

何もなくても神に満ち足りている。これこそが私たちが得ているものです。人をうらやむこともない。すねることもない。ところが金持ちになりたいと思うなら、欲望のとりこになっていくというのです。もっと欲しいと切望して、飽くなき要求はとどまることを知らないからです。ところが金銭では人の心は満たせませんし、不安も解消できないのです。しかも、それはいのちの道ではなく、破滅に至る道だと気づく必要があるのです。

それは悪の根でさえあるとパウロは言うのです。実際、悪い例はいくらでもあげることが出来るのです。利得の道に走って、信仰から迷い出てしまう。福音とは異なる価値観に目が移って、神から離れてしまう。その結果、自分で自分を刺し通したと言わないといけないほど、痛い目にあった人がいたではありませんかと思い起こしているのです。決して他人事とは思えないのです。

本当に得ないといけないものは別にあるのです。それは永遠のいのちと言ってもいいでしょうし、救いと言ってもいいでしょう。ゴールはそこにあります。もちろん、救いはすでに頂いています。しかし、救われていることの意味を考え、その救いの目的に沿って最後まで召された道に歩む必要があることも確かではないでしょうか。イエス様からの最後の問いに対する答えは神と人を愛した人生でしたと言える生き方でありたいのです。

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