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エゼキエル書26章1節ー21節

「現在進行形の神」音声はこちらからお聞きになれます。
私たちはどういう状況に置かれてもなお語るべき言葉があります。エルサレムは戦争で滅びました。国際貿易港を持つツロの町は、ライバルのユダヤ人の町が消えていくのを笑ったのです。商売敵との間は微妙な関係があります。憧れながら、張りあいながら、意識しすぎて、かえって悪影響を受ける。かえって汚染される。かえって信仰の町らしさを失い毒されていくエルサレムのように。

そう思えば、信仰生活には負けてよかったと言えることすらあるようです。ツロの真似をすることはない。背伸びしてツロと競う必要もない。弱肉強食の世界で、相手を出し抜き、蹴落とすために生まれてきたのではない。そもそもそれは神の望む信仰の独自性などではなかった。負け犬の遠吠えではなく、真摯に間違った価値観を指摘できる。身から出たサビとは言え、負けたところから、それでも語れる神の言葉。それこそが信仰者の強みです。

バビロン軍によるツロ侵攻の描写は生々しいです。まるで実況中継のようでさえある。これはエゼキエルがバビロンにいてリアルタイムで戦況を聞いていたためでしょうか。捕囚の民も固唾を飲んで見つめていたに違いない。それほど現在進行形のできごとなのです。彼はこのできごとの背後に現在進行形で働く神の意志を読み取ろうとしています。決して信仰とは無関係の話ではない。渦中に生きている現場の者だからこそ語れる神の言葉なのです。

私たちもこの時代に、この状況に、この社会に責任を負っています。神に託された言葉があります。神からせよと迫られる実践があります。浮世離れはゆるされません。神は社会にリアルタイムで、現在進行形で働いておられます。目を閉ざしてはいけない。鋭く感覚を研ぎ澄ませましょう。わたしは世の中にも他者にも興味がないと言ってはいけない。それは世を愛し、世に働く神にも興味がないと言っているに等しいことになりかねないのですから。

ひとつの海上貿易都市が終焉するだけの話ではありません。なぜなら神は淵から水を沸かせ、大水でツロを覆うとあるからです。これは創世記で神が世界を創られる時を思わせる描写です。神は、人生の勝ち組を目指す経済至上主義の混沌を徹底的に砕かれます。神による全く別次元の愛と恵みによる支配を貫徹し、新しい世界を生み出そうとして働いておられるのです。もう始まっているその希望は今もなお、語られないといけないのですから。

み国を来たらせたまえと神の国の希望を待ち望む私たち。しかし立ち止まってみてもいい。もしかしたら自分もツロではないのかと。ツロ的な生き方をよしとしていないかと。新しい世界に生きようとするならば、捨てないといけない価値観もある。自分は救われたからもう安心と言ってはいけません。毎朝ごとに、瞬間ごとに、迫られています。あなたはどちらを選ぶのかと。現在進行形で生きて働く神ですから求められる信仰も現在進行形で。

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