意識高い系クリスチャン
意識高い系クリスチャンを目指す。牧師と信徒の間には一般的に言って情報格差がある。牧師はプロなので聖書知識と神学的素養に関しての情報量はそれなりにお持ち。(極端な神学不要論を除いて)当然だ。伝道者養成機関である神学校で学ばれているのだから。だって信徒より聖書知識のない牧師って不安じゃないですか。
もちろん、中には牧師顔負けの聖書知識や神学的素養をお持ちで信徒のお立場の方もいらっしゃるが、割合からいうと希少だろう。
この不均衡がよくない方向に進むと、情報の誘導が起きかねない。牧師が自分の誘導したい方向だけに情報を与えるというような。悪意からではないと信じたいが、たとえ無意識であったとしても、それ以外の神学情報や聖書解釈の可能性などまるでどこにも存在しないかのような、誘導も起きかねない。ところが実際は他伝統の教会にいけば他の神学的立場や伝統の違いなどいくらでもある。これこそが正しいと思い込んでいたが、ひとつの立場にすぎなかったとある地点で気づき相対化できることは、信仰の成長のプロセスであって別に悪いことではないと思う。
こういう視点が弱く、最も醜悪で極端な形で知識の不均衡の悪用が露呈するのがいわゆるカルト化教会だ。この立場しかない。この立場こそが正しいと思い込んでしまうようなと言えばいいのか。こういう不均衡をなんとかしようとするには、
信徒が多くを求める姿勢であることが望ましい。意識高い系クリスチャンを目指すのだ。具体的には牧師があわてたり、答えに窮したりするほどの疑問や問題意識をもち、質問できるというような。素直さにはややかけるかもしれないが、個人的にはこういう方は頼もしい。自分がそもそも疑問だらけ、質問だらけのややこしい信徒だったので。
意識高い系信徒が契機となって、牧師も自分ももっと幅広い見識を学ばねばという相乗効果が生まれたりするし、信徒のほうが「先生、どうぞ時間を見つけて外に学びにいかれて下さい」と促して下さる、ありがたい?教会もあると伺う。これが牧師の言うこと鵜呑みの信徒ばかりなら、素直なのは悪いことではないが、何か起こった時に弱い。
牧師をあわてさせる質問ってどんなだろうって、考えてみました。例をあげてみます。
「聖書は原典において霊感されていると学びましたが、現在どこにもない聖書原典に霊感を限定したのはあくまでも保守的な改革派系統のプリンストン神学のお立場ですよね。私たちそもそも改革派ではありませんし、モダンの功罪が問われている今、それ以外の霊感論や正典論の可能性ってないのでしょうか?」
「この教会はいわゆるラディカル神学のお立場だと思うのですが、ラディカル神学を進めていくと、伝統的な三位一体論を否定する方向にいくと思うのです。ということはこの教会はニケーア・コンスタンティノポリス信条の価値も否定なさるということになるのでしょうか」
「JEAはいわゆるカリスマ条項を1980年代におやめになったみたいですが、それ以前とそれ以降では聖霊の賜物理解になんらかの変化があったということでしょうか。それとも部分的肯定もしくは消極的賛成いうことなのでしょうか。聖霊派の中にはいわゆるエバンジェリカルの伝統に立たない教会もありますが、そういう教会とは一線を画すという意味ですか」
もちろん冗談ですが、自分がわかってもいないのに付け焼き刃はダメですよ。牧師や指導的立場の方に煙たがられても当方責任持ちかねます。笑 まじめな話をすると基本は牧師から学ぶことは当然ですが、それでも疑問が生まれたり、さらにもっと知りたいという方がおられるなら、可能性はいくらでもあるということを言いたかっただけです。
ネット時代なので、信徒もその気になれば、ありとあらゆる教派伝統や、神学的見地にふれることは可能です。もちろん知識は断片的にはなるし、系統立ってということは難しいでしょうが、それでもなんの知識もないよりはましです。信徒が多くを知ることが可能な時代ということは、別に批判のための批判をしろということではありません。それだけ信徒もいっしょになって教会をたて上げていく使命も責任も重くなるということです。牧師をあわてさせる意識高い系クリスチャン。出てきて欲しいです。それが結果として牧師を向上させるからです。
そういえば、信仰持ってから現在までずっとひとつの教会や教団にお世話になっているとしても、厳密には純粋培養などあり得ないエピソードを思い出した。
神学部時代、新約の教授に君は改革派か?と尋ねられた。関西学院神学部でこの問いがどういうニュアンスを持つかはわかる方ならわかると思う。キョトンとしていいえと答えた。改革派も長老派もそれまでの人生で一度たりともお世話になったことがなかったので。ところが「君の話や聖書観を聞くとどうも改革派的だ」と仰るので驚かされた。
今なら背景はわかる。所属教団の神学校校長だった弓山先生は、韋編三絶で特にその聖書観は改革派系の古プリンストン神学からの影響が大きかったと思う。保守的な聖書信仰といってもバラエティーはあるようだが、当時は体系だった聖書論というと福音派では古プリンストン一強だったのだろうか。
当然、卒業生は影響を受けますし、母教会にだって信徒にまで余波が及ぶ。従って改革派教会に行ったことはなくても、君は改革派かという問われる事態になってしまう。知らない間に受ける影響力は興味深い。そういう意味では純粋培養と言っても一筋縄ではない。そもそも神学生は所属教団関係だけの本を読むわけではないし、様々な教派伝統の本も読む。おそらくどこの神学校も。
私が興味があるのは現場での他伝統との相互影響。ペンテコステ派を例にとると、ペンテコステ派の伝統の影響が外の他派に及ぶこともある。ワーシップソングの拡散とか。逆に他伝統の影響をペンテコステ派が受けることもある。上の長老派の例のように。しかし、案外内部の者は意識しておらず、オリジナルみたいに思っておられる場合も。
特に日本は宣教のフロンティアでキリスト教はマイノリティ。こういう事情から教派を越えた交流や協力も盛んなので、かえってミックスアップは進む面も。掘り起こしてみるとどんな教団に属そうと外に与えた影響も、外から受けた影響もある。だから、○派ってこうなんでしょというステレオタイプのイメージは当てはまらないことも少なくない気がする。
公同性を
視野狭窄に陥らないためにはどうしたらいいのか。巨視的にキリスト教を俯瞰すること。教会には様々な教派がある。それぞれに特徴や教派伝統や独自性を有している。そこに特化された教派神学というものもあるのかもしれない。それはよくわかる。
わたしの場合はと言うとペンテコステ派だ。ここからは一部に誤解を生みかねないので丁寧に書きたい。よくペンテコステ神学という言葉を聞くのだ。わたしにはこのペンテコステ神学の中身が一体何を指すのかよくわかっていない。お詳しい方にご教示願いたいくらいだ。
ペンテコステ派の特徴と言うと、おそらく賜物論ということになるのだろう。では、賜物論だけで神学ができるのかというと、これは無理だ。賜物論は聖霊論という大きな核の中のごく一部のコアな部分しか扱っていないからだ。もっと言えば、聖霊論は、キリスト論、三位一体論や、教会論といった関連事項の中に位置づけられないといけない。
こういう領域は教理史や、神学史、信条史といった2000年にわたる膨大な蓄積や、アーカイブがあるわけで、ここを無視して、「神学」など成り立つわけがない。このあたりがあいまいだとモダリズムのような古代に解決済みのはずの問題も出てきてしまう。
ところがリバイバル運動にありがちなことなのだが、リバイバル以前が全否定に近い形で断絶化されてしまうか、軽視されやすい傾向はあると思う。それ以外の教会は堕落している、形骸化しているとのお決まりの主張によって。(これも歴史の中でよくあらわれてきたパターンで別に珍しくない)。
ペンテコステ派の場合は、20世紀初頭ロサンゼルスでのアズサストリートリバイバルに端を発する。極端な場合、アズサストリート以前の歴史が何もなく、聖書に帰れのかけ声のもと、アズサ以前は直接、聖書時代のような無歴史主義が主張されるような傾向がある気がするが、あくまでも個人的感想であって、おそらくわたしの気のせいだろう。笑
もうひとつ気になるのはペンテコステ派は体験主義的キリスト教だという点だ。体験主義ということはそれだけ経験則が増える。経験則で物が言えることがたくさん出てくる。わたしだっていちいち言わないが、それなりにある。しかし、経験則だけで神学ができるかというとこれも無理だ。むしろ経験則が神学化してしまうと、断片的なことが中心になっていきかねない。
こういう傾向を避けるためには2000年に及ぶキリスト教の歴史性・公同性の中にしっかりと自分たちを位置付けることではないかと愚考している。これをおこたると、どんな純粋な宗教運動でも、たちまち分派主義的になるし、最悪の場合、亜流のようになってしまう。どこまでも崩れていってしまうのだ。そこから歴史性・公同性にも耐えられないような奇妙な主張や実践が出てくるとしても無理はない。
100年ほどの歴史しかない新参者のペンテコステ派だが、それでもペンテコステ派の歴史を丹念にふりかえると、それは悪い面では誤謬や、逸脱や、分派や極論の発生の歴史でもあり、別からいうと、それらと戦い、対話し、克服しようとしてきた先人たちの営みの歴史でもある。こういう歩みを大切にしながら、21世紀を見据ることが大切なのだろう。
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