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第二ペテロ2章20節ー23節

「選択枝」
ペテロは選択の大切さについて語ります。偽預言者たちは選択を間違えたのです。彼らは一旦は主イエスキリストを知りました。世の汚れから逃れる道を進み始めました。それなのに妙な屁理屈をつけながら、逆の道に後戻りしてしまった。そんな厳しいことを言わなくてもいいと楽で安易な道に流れていった。それは前進ではない。打ち負かされたのです。前の生活に戻っていくなら、キリストを知る以前よりもっと悪い状態に陥るほかないのです。

果たして、主を信じた者にそんなことが起こるのだろうかと疑問に思うかもしれません。厳密に言うなら、本当に信仰を持っていて、信仰を失ったのではないのでしょう。最初から真の信仰などなかったのです。一見、同じ信仰に預かっているようには見えたが、正しく主を信じていたわけでも、十分な理解があったわけでもなかった。だから、ある種の恵みを味わいはしても、簡単に向きを変えて、別の道に進んでいってしまうことが起こるのです。

信仰とは義の道なのです。聖なる掟とあるようにどこまでも正しい生活へと進んでいくもののはずなのです。ペテロが言いたいのは知ることには大きい責任が伴うということでしょう。知った上でそれを拒むならば、一層深刻な結果が待つのです。知らないで悪を行う人とは同列ではないのです。偽預言者たちはキリストの義の道を知っていながら、意図的にこれに背を向けました。欲望に身をゆだね、他の人まで巻き込み、悪影響を及ぼすのです。

私たちにも関係ある話として聞きましょう。信仰生活とは決して罪を許容する生活ではないのです。自由を履き違え、罪の生活を助長させる悪質で低俗な信仰ではないのです。むしろ、主イエスの復活のいのちが宿っている以上、神の悲しむことは捨てて、むしろ神の喜ばれることを積極的に行っていこうと言う思いが与えられるはずなのです。義の道を歩むとはそういうことで、悪い方向へ流されていく言い訳など一切通用しないのです。

ペテロは動物の犬と豚を例として挙げるのです。箴言にもあるように犬は自分の中の悪いものを一度は外に吐き出したのです。それなのに吐いたところに戻り、それを舐め、悪いものを再びからだに取り込んでしまう。豚は洗って貰ってせっかくきれいになっても、わざわざ汚いところに進んでいって、からだに泥をこすりつけてしまう。愚かとしか言いようがありませんが、偽預言者たちが以前の生活に戻っていく姿と重ねているのです。

私たちも信仰を持つ前の生活のほうが楽しかったと思いかねないところがあります。信仰生活のほうがなんとなく堅苦しく厳しく辛いと思ってしまうのです。しかしそれは私たちのうちに救いを始めて下さった主を軽視することです。私たちを変え続け救いの輝かしい完成を見せたいと主は願っておられます。自らそれを取り下げる必要などどこにもありません。罪と戦う力は主から与えられるでしょう。この恵みを信じて歩み続けましょう。

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