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ヨハネの手紙第一5章3節ー5節

「世に打ち勝つ信仰」音声はこちらからお聞きになれます。
ヨハネは神を愛することについて語るのです。そもそも神を愛するとはどういうことなのでしょうか。単に好きというのとは違うでしょう。どんなに大好きであっても、相手を自分の思い通りに動かしたいというだけなら、これほど身勝手な願いはないでしょう。それはストーカーとどう違うと言うのでしょうか。それでは愛したということにはならないことがわかるでしょう。

本当に愛していると言うなら、相手が何を大切にしているかを知る必要があります。自分もそれを大切にしたいと思うものです。したがって、神を愛するとは神の掟を守ることなのだと言い換えられているわけです。掟とはなんでしょうか。父なる神が願っている命令を行うということにほかなりません。しかもそれは難しいことではないとまで言われているのです。

なぜ難しくないと言えるのでしょう。愛することも赦すことも簡単なことではないはずです。なぜ難しいと感じるのか。自分の力でやろうとするからではないでしょうか。ところが自分の力でやる必要はなくなりました。神の子とされた者には神のいのちが宿っていることが約束されているからです。その結果、自分の力以上の力で生きられるように変えられているのです。

そのためには何よりも自分が神によって生まれた者であることをもっと自覚する必要があるでしょう。そうすれば他の人も、神から生まれた神の子であることがわかってきます。他の人も自分と同じく父なる神にとって大切なひとりひとりであることが見えてきます。そうやってお互いがきょうだいの絆で結ばれていく。それが教会という場なのです。それが私たちの信仰なのだと言うのです。

さらに言うとこのような信仰は世に打ち勝つのだとヨハネは言うのです。主イエスが捕らえられる晩、弟子たちとの交わりの場で主が語られた言葉とも重なります。主はあなたがたには多くの苦難があっても、わたしは既に世に勝っていると宣言して下さいました。世とはなんでしょうか。愛よりも憎しみのほうが勝っているように見える世界です。光よりも闇を愛するような世界です。命よりも死が力を振るうように見える世界です。

私たちが生かされているのはまさにそういう世界ではないでしょうか。ところがそういう中にあっても、私たちは打ち勝つことが出来るというのです。負けることはないというのです。憎しみではなく愛に生きるように変えられていく。闇ではなく光を求めるように目を開く。死ではなくいのちを満たしていく。なぜそんなことが可能なのでしょうか。私たちには父なる神がともにいてくださるからです。

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