テモテへの手紙第一6章11節ー16節
「生きる要の希望」
神の人よ。パウロはテモテをこう呼びます。新約聖書では珍しい表現ですが、旧約では預言者を指します。エリヤやエリシャがそうでした。神の言葉を語るために金銭を愛することを避けるのです。かつてエリシャの弟子であったゲハジが欲に目がくらんで、やるべき優先順位を取り違えた失敗例を忘れるわけにはいかないのです。
しかし、そうは言うものの避けることばかりを意識しすぎて身動きがとれなくなるのでも困ります。従ってここではもっと前向きに神の人として求めるべきものを挙げるのです。正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和。それを得ようと熱心に祈り求めることが神の人として生きる鍵なのです。
祈りとは神に向かい合う姿勢です。正しさ、敬虔、信仰。祈りから生まれてくる人間関係には愛や忍耐や柔和が伴うはずです。それを会得するには最後まで走りぬく必要があるでしょう。それは戦いと呼ばないといけないほど激しいものでもあるわけです。永遠のいのちがすでに与えられていることは確かです。ただ永遠のいのちがもたらす約束のひとつひとつをすべて自分のうちに実現していくような生き方が念頭にあるのです。
箱に入ったプレゼントを開いて、中身をひとつひとつ手に入れていくようなものです。頂いているにも関わらず、包みさえ開こうとしないのでは戦いようがありません。頂いていたことすら忘れてしまうようならあまりにも迂闊ではありませんか。信仰の歩みに必要な装備を与えようと神は望んでおられるのですから。
その時に大切なのがどこに目を注ぐかではないでしょうか。パウロはイエスキリストに目を向けるように勧めます。主イエス様は十字架を前にポンテオピラトの前で立派な信仰告白をなさった方ではありませんか。この方に倣うのです。私たちも洗礼を受ける時に信仰告白をしたはずではありませんか。その告白を最後まで保てるように助けて下さる主がおられます。自分に与えられたレースを走り抜くのです。途中棄権をしてはなりません。
やがて、時がくれば神が再臨の主を出現させて下さいます。地上のすべてのものは過ぎ去っていきます。あらゆる力でさえも一時的なものにすぎない。その日が来ればただ主だけがすべてとなって治めて下さいます。私たちはその日の到来を今か今かと待ち望みます。このような喜ばしい希望が心にあるのですから、たいていのことには耐えてみせましょう。しおれていた心をもたげ、顔を天にまっすぐ上げて。神の人とはこういう人なのですから。