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第二ペテロ3章1節-2節

「何度でも」
強調したいことがある時は、何度でも同じことを言うものです。ペテロもそうでした。これが二度目の手紙であるくらい彼とて重々承知しています。しかし、大切なことは反復することを通して心に定着してくるものです。繰り返すことで板に着いてくるものがあります。やがてそれは生涯を決定づけるほどの習慣にまで育っていくことでしょう。一回で身に着くなどと非現実的なことをペテロは想定していないのです。

信仰生活とは反復なしに成り立ちません。くりかえし礼拝に出席します。何度でも祈ります。賛美を歌い続けます。くりかえすことで信仰は強められて深められていくのです。逆から言うと、目新しいものに心奪われて、大切なことを押しやるようなこともあり得るということでしょう。新しいものが正しいとは限りません。同時に今まで聞いてきたからもう十分ですと言える人もいないのです。

ペテロが何度も語るには目的がありました。記憶を呼び覚ますためだと言うのです。それくらい人は忘れっぽい生き物だということなのでしょう。大切なことを忘れてしまうことで簡単に意気消沈してしまうのです。信仰が萎えてしまう原因のひとつは今までの神の恵みを忘れてしまうからでしょう。そういう人でも思い起こすことができるなら、再び信仰を奮い立たせることができるのです。

ペテロは自分の死後もこの手紙が読まれ続けることを想定しているはずです。つまり思い起こすとは、亡くなられた方の過去に目を向けることでもあるのです。信仰の証を残して天に帰られたひとりひとりの言葉や生き様を振り返ること。あるいは歴史上の信仰者であっても同じことです。あの生き方は神がおられないなら、あり得なかったと確認するのです。それを自分の信仰の糧として、模範としていくのです。

究極的にはキリストに目を向けることです。何故なら亡くなられた方が目を注いだのもこの方だからです。キリストに目を注ぐために文字と言う形で聖書が与えられているのです。もちろん、聖書は様々なパートの集合体です。預言者と言われている旧約聖書。イエス様の言動が記録された福音書。それに手紙と言う形で残された使徒たちの教え。これは決してバラバラのものではなく、キリストを証しする点において一致しているのです。

証言とは一致していればいるほど確実性が増していくものです。曖昧なものに触れたところで心が奮い立ちはしません。しかし証言の確かさと豊かさに目を向ければ向けるほど心は引き上げられることでしょう。そういう意味でみ言葉を通して励まされるのはもっともな話なのです。心が弱っているなら、み言葉に聞けばいい。心揺れるならみ言葉から確信を得るでしょう。繰り返し繰り返しみ言葉に立ち続けるように招かれているのです。

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