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ガラテヤ書1章1節ー2節
「神の召しに支えられて」
誰でも文章の書き出しには工夫をするものです。手紙の挨拶文とて同じでしょう。ガラテヤの教会に充てた手紙の冒頭で、パウロは自分が使徒であると語り出します。神からの使者という意味です。なぜなら、送り先であるガラテヤ教会がパウロが使徒であることに疑いを持っていたからです。なんとしてもその疑いを晴らして自分が使徒であることを明らかにする必要があったのです。問題はその根拠にありました。
パウロが提示する根拠は復活の主イエスに出会ったことです。復活の主が直接彼をお召しになったのです。さらにさかのぼると、主イエスを死人の中からよみがえらせて下さったのは父なる神様なのです。これは決して私たちと無関係な話ではありません。人として生まれた主イエスが十字架で死んで復活された以上、この方を信じる者も同じ復活の希望に生き、永遠のいのちに預かっていることを告白されているからです。
ところがガラテヤの人たちは使徒となるには復活の主の召しだけでは不十分だと考えています。教会の指導者たちやの推薦や認可の必要性を重んじています。パウロは私を召したのは主なのであって、自己推薦でもなければ誰か権威筋からの承認でもないと強調するのです。これは自分が何者かという私たちの自己理解とも関係します。何かの権威によって自らを証明する必要はないのです。私たちは神の子だという恵み一点のみが私たちを支えるのです。
そうは言ってもこれは別にパウロの独りよがりな言い分というわけでもないのです。なぜなら、わたしとともにいるすべての兄弟とあるからです。即ち、パウロの信仰と同じ理解に立つ仲間が大勢いることをパウロは証ししてやみません。仲間たち全員が同じ信仰告白に立って、共同体を形成していくのです。彼は決して孤独ではないのです。
穿った見方をするならば、ガラテヤにある教会はこの信仰理解の側に立っていないのではないかという問題が仄めかされているとも言えるでしょう。ガラテヤ教会の抱える課題は手紙を読み進めていくうちに明らかにされていきます。戦いと言ってもいいほど激しい論調の中で少なくともパウロは福音からそれることなく、同じ信仰理解に立ってほしいのだと切望していることが読み取れるのです。