使徒言行録6章1節ー7節
「教会が大切にするもの」
私たちは時間の中に生きています。今日の話も「そのころ」と語り出されます。実はこれは教会が新しい段階に入ったことを表す言葉なのです。一体、何が起こったのでしょうか。信徒数の増加です。しかも文化の異なる違う言葉を話す人たちが増えるにつれて教会に問題が発生したのです。身寄りのない女性たちの中に日々の配給がおろそかにされる人が出てきました。教会はこの問題に真正面から取り組む必要が出てきたのでした。
現代にも同じことは言えます。教会に起こる問題は必ずしも誰かの悪から生じるわけではないのです。たとえ、不愉快な出来事が起こったにせよ、もともとの動機にある助け合いの心まで否定する必要はありません。それは必要なことです。もっと言えば、問題が起こった時こそ、教会の一体感と一致を失わないように努力すべきなのです。ましてや苦情を言う人を無視するとか、切り捨てるなどということは決してあってはいけないことです。
この問題に対する解決策は、食卓に仕える新たな奉仕者を七人選出することでした。もちろんこれは教会の一致を保つための提案です。従って、その資格とは御霊に満ちて、知恵に満ちた人であるということでした。聖霊の働きは種々に及びますが、ここでは超自然的な賜物の現われは強調されていません。むしろ御霊に満たされた人とは社会的にも評判のいい人なのだという理解があります。その人は生活と言葉において福音を証するのです。
不思議なことに七人の奉仕が具体的に何であったのかには触れられていません。食卓に関して一部の女性が満足したので、めでたしめでたしでした、とは結ばれてはいないのです。むしろこの結果、神のことばがますます広がっていった信じる者の増加が強調されています。その上に多くの祭司が信仰に入ったとあります。ユダヤ教の専門家でも導かれずにはおれないほどの質的な向上がそこでは見られたことが明らかにされているのです。
それでは、なぜ、こういう成長が起きたのでしょうか。理由は使徒たちが祈りとみ言葉の奉仕に専念できる体制が整ったことにあります。新しい奉仕者の選びは教会に礼拝と説教に集中できる人を確保するために必要だったのです。奉仕の分業も分担も、小手先のその場しのぎで終わり、中心となる目的を忘れてしまっては無意味です。今も教会は神の言葉の説教と礼拝に集中される時に、問題は解決し、救われる者が起こされ続けることでしょう。
この福音を使徒が伝えようが、七人の誰が伝えようが別に構わないのです。ここで問われているのは教会の中にみ言葉を中心に歩みたい熱心があるかどうかです。どんなトラブルがあろうと、み言葉と礼拝を何にも増して優先順位とする敬虔さがあるかどうかです。そこさえ確かであるならば、教会の中のありとあらゆる奉仕はすべての点においてこの原則が生きてくるようになり、量の面においても質の面においても教会は成長していくのです。