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テモテの手紙第一6章1節ー2節

「しもべとして生きる」
パウロは奴隷の立場にいる者にまなざしを向けるのです。ローマ帝国は奴隷社会でした。人口の3分の1は奴隷だった分析もあります。そういう中から信仰を持つ者も少なくありませんでした。奴隷は、主人が信仰を持たない者であろうと尊敬して仕えるようにというのです。現代人はここでつまづきを覚えるのです。聖書は奴隷制度に対して賛成なのだろうか。差別を助長するのか。人道上問題があるではありませんかと疑問を持つのです。

答えから言うとこれは現実対応です。いきなり奴隷解放の社会運動を始めたとしても、社会は混乱し国が崩壊するだけです。解放された奴隷も路頭に迷います。むしろ忍耐強い神は何世紀もかけて奴隷制度撤廃に至る歴史を導く方なのです。奴隷に限りません。今すぐに成果が出ないと納得がつかない私たちに、結果が出ずとも、行きつ戻りつしながらでも将来を神に信頼を寄せるように求められているのではないでしょうか。

なぜ主人を尊敬するのかと言うと、神の御名と教えが冒涜されないようにするためです。人は信仰を持たない理由を探すものです。あの人は信仰者かもしれないが、仕事はいい加減で適当だと評価されると、神を信じない理由を増やしてしまう。そうではなくて、働きぶりを通して、神はいるのかもしれないと相手にインパクトを与える生き方に召されています。これは現代の労使関係においてもある程度あてはまることなのです。

現代は非常に世俗化された社会です。宗教そのものへの風当たりが強い中で、クリスチャンである私たちは余計につまづきを与えるわけにはいかないのです。むしろ社会によき影響を及ぼし、社会に変化を与える者として神に期待されている。私たちが神に仕えるように召されている場所は職場なのです。仕事以外生き甲斐のない仕事人間にまでなる必要はありませんが、決して教会でだけ神に仕えているわけではないのです。

一方、主人も奴隷もクリスチャンであるケースの場合はどうでしょうか。主にある兄弟姉妹ではないか。もはや奴隷も主人もないでしょうという理由が、変な甘えや馴れ合いを起こしかねないと言うのです。これくらい愛を持ってゆるされるだろうと働きに不忠実さが出てきてしまう。失礼な態度に出る。神に愛されている主人への尊敬が薄れ、軽んじてしまう。そうならないようにますます熱心に仕えなさいと言うのです。

現代に奴隷制度はありません。しかし私たちはどんな人生を歩もうと、しもべです。仕事をリタイヤしようがしもべである点は変わらなのです。仕えられることを目指すのではない。遜って仕えることを目指します。どんな優れた賜物も人を支配するために使うなら空しい。そうではなく、与えられた賜物は神と人とに仕えるためのものだと自覚し、生きるすべての領域にわが身を差し出そうではありませんか。

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