見出し画像

テモテへの手紙第一5章3節ー8節

「弱い立場の方への配慮」
パウロは伴侶を失った身寄りのない女性について書くのです。手紙全体のバランスから実に長い文章なのは、当時の教会がこれらの女性に対して社会的奉仕に時間を惜しまなかったことが理由として挙げられるのでしょう。思い返すと最初のエルサレム教会でも身寄りのない女性に対する配慮は重要な奉仕と考えられていたことを思い出します。一方で、身寄りのない女性が時に教会で少なからず問題を引き起こしていたことも背景としてあるのです。

社会保障制度のない当時は女性の立場はあまりにも弱いものでした。伴侶を失うと路頭に迷ってしまうことも多々ありました。彼女たちは最後の最後に教会に助けを求めてきたのでしょう。そういう中から救われ、信仰を持った人も少なくなかったものと思われます。いつの時代も社会福祉的な働きに教会は取り組んできたことは確かです。教会がセーフティーネットでした。結果として教会が社会的評価を得てきた面もあるのではないでしょうか。

ところが人間の罪は、どこにでも現れるものです。社会的立場の弱い存在イコール美しい善人とは限らないからです。その点、パウロは人間を冷静に見つめていると言っていいでしょう。教会が主のために懸命に働く場こそが誘惑や攻撃の対象になることもありえるのです。独り身であるならば、自動的に教会の援助を受ける資格があると言うわけではないのです。子や孫がいるのならば「父と母を敬う」十戒の教えを従うよう促す必要があるのです。

基本は自分の家族を大切にすることなのです。教会がなんとかしてくれるから、自分は全く手を貸さないという態度は甘えであって間違っているのです。親を敬うことが神に喜ばれることだからです。ここでパウロは厳しい指摘をしています。教会が生活の面倒を見てくれるのだから、いい加減な生活をし、教会生活もきちんとしないなら生きているのは名ばかりだと言うのです。それは教会に付け込んで、悪用しようとする間違いなのですから。

一方、子どもや孫に対する指摘も厳しいものです。自分の家族の世話をしないような者は、信仰を捨てたに等しいと言われているのです。それでは信仰のない一般の者よりも悪く証にはならないのです。確かに一般の方が親のために懸命に尽くしているのに、信仰者がその責任を放棄してしまうようでは一体なんのための信仰かわからないと言われても仕方のないことではありませんか。

教会が弱い立場の人のために社会的な奉仕に取り組むことはもちろんすべきことでしょう。但し、そこには知恵を働かせる必要があるのです。何を優先順位とし、何を取捨選択すべきなのか。慎重かつ丁寧に現実に向かい合わないといけないことなのです。してよいこととよろしくないことがあります。今なすべきこととなすべきではないこともあります。それを見極めることでこそ教会としてのふさわしい配慮が生まれてくるのではないでしょうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?