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第一テモテ1章1節ー2節        

「この福音を語り継ぐ」
自分は何者なのかは現代の大きなテーマです。使徒としてのパウロのアイデンティティは神とキリストイエスに任命されたことにあります。自分の務めに忠実でありたいからこそ、どういう神かを明らかにするのです。救い主であるイエスではなく神とあるのは珍しい表現です。これは当時、ローマ皇帝が救い主である神と呼ばれていたためです。ローマ帝国の価値観とははっきりと異なる神を提示するのです。

確かにローマ帝国も希望を説くことでしょう。この権力と経済繁栄こそ希望だと豪語さえするのです。そういう中で私たちの希望はイエスキリストだと宣言します。偽りの価値観に対してそれは希望の名に値しないと挑戦するのです。今も同じです。これが成功の道だと間違った価値観が渦巻き、ここに希望がというまことしやかな声が響く中で、だからこそ福音こそが希望だと告白する必要があるのです。

さらに希望であり、救いである以上、一世代だけで終わっていいはずがないのです。福音は必ず次の世代へと継承されていくのです。バトンがリレーされていくことを想像してもいいでしょう。実際、パウロから次世代のテモテに福音と言う宝が手渡されていくわけです。私たちには手渡すべきものと手渡すべき相手が与えられていることを自覚し、感謝しようではありませんか。

ここでパウロはテモテが派遣されたエペソ教会の必ずしも容易ではない状況を知り抜いていたのでしょう。実際、困難も多々ありました。あるいはテモテ個人の弱さも知っていたことでしょう。だからこそパウロは挨拶の声に他の手紙にある恵みと平和という二つの言葉に重ねるように、憐みと言う言葉を添えるのです。教会の最も弱いところに必要であるのは主の憐みなのです。

実際、主の憐みなしに自分たちの力だけで教会がどうやって立ちゆくことができましょうか。しかし感謝なことに私たちはあらゆる逆境の中であっても主の憐みを期待してもいいのです。もしも教会が強いと誇っているなら、憐みなど必要ありません。しかし教会が弱さに呻き、課題に嘆き、うずくまる時こそ主の憐みは注がれましょう。この憐みが確かだからこそ、何度でも立ち上ってみせましょう。

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