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テモテの手紙第一6章3節ー5節

「敬虔な生き方へ」
奴隷のあり方について語って来たパウロは、福音とは違ったことを教える人に目を向けるのです。彼らは敬虔を利得の手段と考える人たちだと言うのです。今の言葉にすると宗教ビジネスです。信仰が何かを得るための手段、もっと露骨に言うと金銭を得る目的になっているのです。彼らはキリストの名前を用いながら、そういう教えを説いていたようなのです。知性が腐り、真理を失っていると指摘されても無理もありません。

古代に限らないでしょう。いつの時代もそのような利得の道は人を惹きつけやすいのです。特に社会で抑圧され、不当な扱いを受けてきた貧しい奴隷の立場が利得の道に走ろうとすることもあり得そうです。もっと経済さえあれば。この信仰をすれば儲かる。儲かって人の上に立てれば、虚栄心を満たせる。成功したい。有名になりたい。認められたい。今までの不満がいっきにある種の復讐心へと暴走する。いかにもありそうな話ではないでしょうか。

ところがこれらの利得の道が何をもたらすのでしょうか。パウロは鋭い目で見ているのです。飽くなき欲望を追求することで高慢になっていくのです。持たざる者を下に見るのです。自分の実力を誇り見せつけだすのです。信仰に関してはなにひとつ理解していないのに、自己弁護の言い訳に議論や論争に明け暮れます。富を得ることにしか関心がないなら、周りは全部ライバルです。当然、ねたみ、争い、そしり、悪意が渦巻くことでしょう。

すると教会はどうなっていくでしょうか。分裂していくのです。一致が保てなくなっていくのです。誰が経済的に豊かで誰が豊かでないかが物差しとなっていくのです。そういう空気の中では奴隷に説いた、仕えるしもべになりなさいとの愛の姿勢が生まれてくるはずがないではありませんか。それを福音に生きている者の姿だと認めるわけにはいかないのです。キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとはとても言えないではありませんか。

健全なことばと敬虔にかなう教えとは、なんでしょうか。敬虔とは神へのおそれに根差すものです。目には見えなくても神を敬う礼拝。その影響は人間関係においては互いに仕えあう姿に現れてくるものです。キリストが十字架の死に至るまで仕え切られたように、しもべとして生きる姿でなくてなんでしょうか。人生に勝ち、成功を謳うもっともらしい人生哲学が耳目を集めたとしても、教会が拠って立つ福音はそこにはありません。

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