小説「環」第2話 特別なもの
タマキは学校から帰ると、いつものように近くの森の中にある山桜のゲンさんの根元に座っていた。三月に入り、草木は芽吹き始めていたが、まだ日は低く、森にはひんやりとした空気が立ち込めていた。体育座りのまま膝に顔をうずめていると、腕や額に自分の体温を感じた。中学に入学して一年が経とうとしている。友達はできなかったが、ゲンさんが話し相手になってくれることで、心は癒されていた。 数日前に母が急に入院したが、父からの話だけでは、タマキには何が起きているのかよく分からなかった。
「お母さんのこと、心配だね」 ゲンさんは言った。 タマキは答えず、うつむいたままだ。ゲンさんはしばらく間を置いてまた言った。
「きっと大丈夫だよ」
タマキは涙がこぼれそうになるのをじっと堪えていた。背中がじんわりと暖かく感じるのは、ゲンさんが撫でてくれているのだろうと思った。ゲンさんはそれ以上何も言わなかった。おかげでタマキの心は次第に落ち着いてきた。
去年、この森の中で輪を描くように天を流れる川を見た。今となっては、それが本当に起きたことなのか、ゲンさんが見せてくれた夢なのか、よく分からない。ただ、あの時に鳥が言った言葉がタマキの頭から離れなくなった。 「天を流れる川はすべての源」
「流れから粒になって別れてくる一粒一粒は特別な何かを与えられる」
タマキは、自分もあの粒の一つなのだとしたら、一体どんな特別なものが与えられてい るのだろう、と考えていた。勉強も運動も苦手だ。他の人にはない特別なものなど一つも思いつかなかった。
翌日、タマキが学校から帰ると、机の上に一通の封筒が置いてあった。表には「タマキへ」とだけ書かれていた。控えめで整った筆跡は母のものに違いなかった。母さんからだ!鼓動が速まるのが分かった。乱暴に机の引き出しからカッターナイフを取り出し、封を開ける。三つ折りになった便箋の束を取り出す。開くと、やはり見慣れた母の字で埋められていた。
『タマキへ
母さんのことをとても心配しているでしょう。心細い思いをさせてしまってごめんね。母さんは大丈夫です』
タマキはふうと息を吐いて続きを読み進める。
『母さんは今、病院のベッドの上にいます。病院では面会ができない決まりになっているそうで、あなたに会えなくてとても寂しいです。
父さんとの暮らしはどうですか? あなたは最近父さんと話をするようになったから、きっと大丈夫だろうと思っています。
この前あなたが尋ねたこと、母さんはすぐに答えられませんでした。あなたが生まれてきた時にどんな特別なものを与えられたのか、ということ。あの時とても真剣な顔をしていました。その答えになるか分からないけど、今まで話してこなかったことを伝えようと思って筆をとりました』
タマキは喉の渇きを覚えた。机の上にあった水をゴクリと一飲みして、椅子に座った。
『これはあなたが生まれる前、もう十五年以上前の話です。 母さんは父さんとは別の人と結婚して暮らしていました。その人との間に男の子もいました。ある年の春休みに家族旅行に出かけました。母さんは渋滞に巻き込まれるのが嫌で、朝早く出発したいと夫に頼みました。夫は毎日残業で寝不足なことも承知していました。結局、夫は高速道路で居眠り運転をして、大事故を起こしてしまいました。生き残ったのは母さんだけでした。母さんのわがままのせいで、夫と子供を死なせてしまいました。それ以来、母さんは自分を呪って生きました。
数年が経ち、これ以上自分が生きていることが許せなくなりました。職場の近くを歩き回り、屋上から飛び降りられそうなビルに目星をつけた時、一階のギャラリーで絵画の個展が開かれていることに気が付きました。母さんは絵を観るのが好きでした。最後に絵を見たいという思いが沸き上がり、吸い込まれるように足を踏み入れました。ある絵の前に立った時、体が動かなくなりました。それは背丈くらいある大きな油絵で、いくつもの色から成る輪のようなものが描かれていました。タイトルには「環」と一文字書かれていました。その絵から目を逸らせなくなり、涙が止まらなくなりました。 画家は在廊していなかったので、名刺を持って帰りました。飛び降りようという気持ちは消えていました。
それから毎日その絵のことを考えました。母さんは思い切って名刺に書かれていた番号に電話をかけました。暗い声の男の人が出ました。母さんは個展で見た絵に感動したことを話し、それをもう一度見せて欲しいと頼みました。画家はアトリエへの行き方を教えてくれました。次の休日に、電車とバスを乗り継ぎ、彼のアトリエを訪ねました。迎え入れてくれた画家は、痩せた顔にあご髭が無造作に伸びていました。目は虚ろで生気がありませんでした。小さなアトリエには所狭しと絵が置かれていて、その中に個展で見たあの絵もありました。母さんはそれを何時間も眺めました。
それから何度も彼のアトリエを訪ね、絵を見せてもらうようになりました。ただ見せてもらうのは申し訳なくなり、掃除をしたり、ご飯を作って帰るようになりました。彼はほとんど口を聞かず、いつも黙々と絵を描いていました。 ある日、珍しく彼が私に話しかけました。
「今日はご一緒に食べていきませんか? 実は、あなたの料理はとてもおいしいのですが、私には食べ切れないのです。ご一緒に食べていただけると嬉しいです」
その日、私たちは昼食を共にしました。絵を描いていない時の彼は、少し口数が増えました。
「あの絵のどこがそんなに気に入ったんですか?」
彼は聞きました。
「分かりません。でも、私を惹きつけてやまないんです」
そう答えた後、事故で夫と子供を失ったこと、絵を見て死ぬのを思いとどまったことも話しました。話しながら、また涙が止まらなくなりました。 彼はひとしきり話を聞いた後、こう言いました。
「私はあの個展を最後に絵を描くのをやめようと思っていたんです。しかし、あなたから連絡がありました。あなたがここに通うようになり、真っ暗だった私の中にほのかな灯りが灯ったようになりました」
母さんは驚きのあまり、言葉が出てきませんでした。
その後、彼は近くにある森に散歩に誘ってくれました。そこには大きな山桜の木があり、私たちはその根元に並んで座りました。彼はよくここに来て絵を描くのだと言いました。互いに何も話さず、ただ座って過ごしました。彼は母さんの肩をずっと抱いていてくれました。
それから彼の家へ転がり込み、一緒に暮らすようになりました。そして、あなたが生まれたのです。私たちはとても喜びました。母さんにとっては特別な宝物をいただいたように思えました。
事故で子供を失った時、彼は十三歳で中学一年生。今のあなたと同じ歳でした。あの日が近づいてくると、母さんは言いようのない不安に襲われるようになってきました。日常生活にも支障が出るくらいになってしまったから、病院に入院しました。でも、良くなってきています。もう少し良くなったら家に帰るから、辛抱していてね。 母さんより』
タマキは分厚い便箋の束を丁寧に封筒に戻し、机の引き出しにそっとしまった。 玄関を飛び出すと、森へ向かって走り出した。