ブレーキの効かない技術革新に心配になる
自分はたまにちょっとした四コマ漫画みたいな絵を描くことがある。
小さい頃から絵を描くとちょっとだけ褒められることが多かったからかもしれない。
美術部に所属していて、ミロのビーナスの胸像などをせっせと木炭デッサンしていたこともある。
絵を描くにはセンスも多少必要ではありつつ、それ以上に訓練が必要だ。
訓練で、模写をしたり、たくさんの作品をみたりすると、その人の絵の雰囲気や方向性に影響することもある。
無意識に自分の作品に訓練で見た作品・作者と似る部分が出てきたりするのだ。
生成AIを肯定する人達によると、訓練は生成AIの学習と似たようなものではないか?だから生成AIが学習の結果作成したものも問題ない。という論理があるらしい。
プログラマの世界では、効率化の面から模倣はさほど悪弊とはされていない。IT業界の人間はこの辺りの感覚が少し鈍いのかもしれない。
ビジネスの世界では、効率化こそが善であり、元がなんだろうかどうでもいい、生成AIというフィルタで著作権から解放され、素早く欲しいものが手に入るのであればいいじゃないか。そんな感覚のように思える。
生成AIについて、文章・音楽・写真・絵画・イラストを作ってきたアーティストやクリエイターが異を唱えることが多くなっているように思う。
アーティストやクリエイターの皆さんが感じるであろう違和感・気持ち悪さ、理不尽さを私も感じる。
自分のセンスや訓練の成果・アイデア・想像力を総動員し、苦しみつつ作品を生み出すということがどれぐらい大変なことであるのか、多少理解できる。
その成果を無断で学習したAIにより転用される、となればやはり平気ではいられない気がする。
自分の仕事にプライドを持っているのであればなおさらである。
特に文化的・芸術的な作品への敬意が大きい国では激しいものになるのではないだろうか。
生成AIで作ったことを公表せずに作品を発表し商業的に成功するものも出てくる。(すでに大量に存在しているだろうけども)
学習の元(オリジナル)を作ってきた人達が、生成AIの作るもの(派生品)により必要とされなくなる。そんな世界が来ようとしている。
人の創造力を大事にする人たちが、軽視する者たちに駆逐される。
(しかも、彼らの目的はビジネス・お金である。)
それで本当に良いのだろうか...
好きな時代小説に「三方よし」という言葉が頻繁に出てくる。
近江商人の哲学を表す言葉だそうだ。
三方とは、売り手(自分たち)、買い手(顧客)、そして世間(社会)である。
自分の主観では、以下のように捉えている。
「世間は自分たちを支えてくれるものだ。
自分たちが利益を得られるというアイデアも、自分たちだけ肥え太り、支える側を瘦せさせてしまえば、短期的には豊かになっても、長期的には支えるものを失い失敗し滅びてしまう。」
この哲学は、道徳や倫理に近いものだと思う。
優れたアイデアであっても、全体の調和を乱す・壊すようなものであれば、負の結果をもたらす。
思いついたり・作れたりしても、熟慮し敢えて世には出させない、もしくは制限する等、行動の指針(タブー)となる。
最近、SNS・暗号資産・AIなど、発明やビジネスアイデアの中に、このような”タブー”を「過去の常識にとらわれない」かのようにごまかし、
あえて、いや、積極的に無視するものが増えているように思う。
(率先してタブーを犯す企業や人物が支配的となり富豪化しているように感じてしまうのはただの妬みだろうか...)
沢山の組織や企業がそのアイデアを持っていたとしても、タブーを犯す可能性があるため研究に止め・抑え込んでいる。
しかし、ある企業がタブーを無視し世に出してしまう。
もともと将来有望とされるアイデアである、さらに便利さを冗長し娯楽性の高いものなら一気に広まってしまう。
先頭を切ったこの企業は、賞賛とともに、その分野の投資を独占してしまう恐れがある。
慌てた他の組織や企業も遅れをとるまいとすでに研究していたそのアイデアを一斉に世に送り出す。
”タブー”はなし崩し的になかったことにされる。すでにマーケットで資本を集めてしまえば、もはや否定することが出来なくなる。
禁を破るような大きな技術・変革が大量に一般社会に出てきている。
果たして、これらは私たちに幸福と破滅のどちらをもたらすのだろう。
蛇にそそのかされて食べてしまったリンゴ、パンドラの箱にしないようにする方法はちゃんと用意されているのだろうか。