【仕事の記憶】(1)業界に入ったばかりの頃
業界に入るキッカケ
自宅から徒歩圏、かつ、貧乏人でも大丈夫(授業料が年間たったの三十万円)という理由だけで選び・受験した大学・学部である。
何のために勉学するのか目的を持たない自分は、まったく学業に身が入らずアルバイトにのめりこんだ。
(化学系学科だったので長時間の実験とアルバイト時間の両立ができなくなった。という言い訳もしておきたい。)
3年目の後期、単位数が大幅ショートしている、留年確定である。
心を入れ替えて頑張って卒業しようという気持ちもなく、スパッと中退して就職しよう、と親にも相談せずに勝手に決めてしまう。
(当時の自分に説教したくなる。学費が安いのは国費・税金が投入されているからであり、沢山の人たちに支援されて勉強させてもらっているという認識も感謝も全くない、本当にダメな奴だなコイツと改めて思う。)
自分の学科では、ポケットコンピュータや関数電卓を持っている程度でちゃんとしたPCを持っている者は少ない。数十枚のレポートも手書き提出していた時代である。自分も友人宅で信長の野望などのゲームぐらいしか触ったことがない。
ただ、これからはコンピューターで色々できるようになるんだろうなぁと興味・認識はあったので、いっちょプログラミングでもやってみようか?と軽い気持ちで、勉強させてくれそうな会社の求人を探すことにした。
今のようにネットで調べることも転職支援エージェントもない、求人情報誌を購入し調べる。システムエンジニアの求人は当時も沢山あった。ぎりぎりバブル時だったし、今後システムエンジニアは不足するとされていた。
”経験者もしくは専門学校・大学卒”となっているものばかりだったが。世間知らずの自分は、気にせずに掲載されてい求人の中で社員数ぐらいしか見ずに規模が大きい首都圏に本社を置く企業に応募した。
その企業は、地元自治体に支社を開設するため、まとまった人数のシステムエンジニアを募集していた。
幸運なことに、するすると書類審査・基礎学力試験・適正検査・面接・健康診断と選考を通過し、専門学校・短大相当の扱いで採用に至る。ただし、未経験である自分は、首都圏にある本社地区の事業所で教育を受けて、そのまま2年以上実務経験するという条件が付いた。
地元を離れる時、アルバイト先の同僚・友人が見送りに来てくれた。
知り合いもいないところに初めて一人で住むことになる、心細かったのか羽田到着前に少し泣きたくなったことを思い出す。
羽田空港からは慣れない電車を乗り継いて、なんとか小田急線某駅の社員寮にたどり着いたのであった。
入社時の教育
その年度の新卒採用者(30~40人位)と同じ入社日で、彼らと一緒に教育を受けることになっていた。齢が新卒者とほぼ同じなので紛れ込んでも全く違和感はなかったと思う。会社側もいろいろと配慮してくれたのだろう、時すでに遅いけども感謝である。
教育期間は2カ月ぐらい、全員人事部預かりとなる。
教育カリキュラムはこんな感じだったと記憶している。
ビジネスマナー入門
自社・顧客を含めた業務の概要とか、お辞儀の仕方とか名刺の渡し方とか、納期は絶対とか仕事上での考え方とか。情報処理技術の基礎
今でいう基本情報処理技術者レベルのお勉強。業務で使用するアプリの使い方
ワープロや表計算、エディタなど。
節目で二種情報処理技術者試験の過去問(今の基本情報技術者試験相当)を実施したりと、結構しっかりした内容だったと思う。
この業界のならではの習慣も色々教わる。
例えば、言い間違い・聞き間違いをできるだけなくすため、発音が似たアルファベットは"T=てー"、"D=デー"のように発音するようにと指導された。
電子データで情報をやり取りしコピペする現在、このような習慣はあまり意味が無くなっているかもしれない。
この時、教育を担当していた人事課長の口癖が「100回読めばわかる」だった。業務と違い答えありきの課題である「答えを導くだけの情報はちゃんと教えたし、書いてあるよ」ということだろう。
配属と最初のプロジェクト
イーサネットやインターネットという言葉も業界のわずかな人間しか知らなかった時代である。当時の”通信”とは大抵はシリアルポートや電話回線による音声やデータ通信のことである。
会社は”通信専門のシステム”を看板に掲げていて、通信事業者の電子交換機や企業向けのPBX(構内交換機)、周辺機器のシステム開発に特化している。
売り上げの大部分をNTT傘下、電電ファミリーの情報通信大手企業から発注される案件に依存している。
一括請負を基本としプロジェクトは自社社員でのみ構成される。2次外注したり、派遣やSES契約のメンバを外部調達するようなことはなかった。
(当時としては、これが当たり前だったかはよく分からない。今の業界の慣習から考えると随分と良識ある対応をしていると思う。)
自分の配属先も電子交換機のソフトウェア開発業務を請け負っている部署である。
配属後、速やかにプロジェクトに参画する。
とてもエンジニアですとは名乗れない。ただのアシスタントである。
技術的なことは何も知らず何もできないのでとにかく体を使う。コピー取り・電話取り・FAXの送受信、誰でもできるような事務処理や文書作成などこなす。
並行して、電子交換機システム開発に必要な基礎技術を学ぶ。
当時の電子交換機は電電公社時代に電電ファミリー企業が分業開発したD70交換機をベースにしたものである。
システムは、専用プログラミング言語(CHILL)で記述する。驚いたことに、ソフトウェアの修正パッチは16進数の機械語で記述するため、専用CPUのアセンブラ(DESAP)も学ばなければならない。
電子交換機のシステムは当時としては非常に複雑かつ大きなもので、構成するサブシステムの名称を覚えるだけでも苦労していた。
プロジェクトは、自分が配属時、設計・コーディング(makeと呼んでいた)工程を終了し、すでにテスト工程に入っている。
見習いでも手順書が用意されていれば、内容・意味は分からずとも、なんとか手を動かして仕事らしいことはできるだろうということで、徐々にテストや、実行ファイルのコンパイル・ビルドを任される。
コンパイル・ビルドは、PC上で動作するターミナルソフトから専用線で汎用機(メインフレーム)に接続して実行する。ターミナルは汎用機のソフトウェア開発経験者であればおなじみの黒背景に緑色の文字である。
テストは大抵深夜・徹夜作業で、通信事業者の交換機がある極寒のマシン室で実施する。
システムを交換機にロードする際、なんとオープンリールのテープを使っていた。昔のSF映画で出てくるコンピュータールームのそれではないか。
様々な部分で汎用機に似た技術・デバイスを応用する環境であった。
ちなみに自分はそのマシン室で、パンチカード、8インチフロッピーディスクも目撃している。(博物館かよ...)
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