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2月23日【日記】作文の意味や目的はいろいろです

出版されたある本について、著者のインタビュー動画をみていました。鋭いことを言っているなあと、おもわず聴き入っていた午前9:15分過ぎ。ところがインタビュー後半を聞いて、むむむむとなりました。なんと、流行りに迎合した文章をゴ◯呼ばわり!編集されたインタビューなので、話全体を聞いたわけではありません。実際の真意はわかりませんが、◯ミよばわりはないんじゃないかと思った次第です。

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noteは当面、日記運用しています。今日の出来事、考えていたことなど、そこはかとなく書いていきます。今回は日記的な出来事はさておき、作文や発信の意味などについて、すこしだけ。

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書きたいものを書く

誰がどんな意見をいうのも自由だし、1つの考え方を否定するのも肯定するのも自由だと思います。もうこの話題に結論は出ています。

その著者の話を要約すると、いまウケる文章はどういうものか、いいねされるSNSはどんな内容なのか、を考えて書かれた文章はすべて「ゴ◯」だそうです。でもって、本当に書きたいことを書くことにこそ価値がある、みたいな内容だったとおもいます。もうどうでもいいですが(笑)

徳を積んだ僧侶

徳を積んだ僧侶を人徳レベル100としたとき、同じ僧侶でも、レベル70だとか50の人がいるはずです。一方で世俗に在っても、人徳レベルが80だとか90の人もいるはずです。人徳レベル100の僧侶が、世間に向かって「おまえたちは人徳はゴミのレベルだ」などと公言してしまうのはなんだかおかしな感じがします。そもそも優劣をつけることではない気がします。

僧侶を尊敬している人がそれを聞いたら、腹が立ちませんかね。僧侶はサラリーマンの辛さをしらん!とか、出家してるからそんな事言えねん!とか。それとも、そんなひどいことをいう僧侶のレベルは、偽物かもしれません。

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ちょっとがっかり

ちょっとがっかりしました。本を出したり、インタビューうけたりってすごいなあって、ちょっと憧れていたんですが。まあ、憧れは幻想だったということですね。僧侶=人徳があるわけではないということ。もっとも、そういうことがあってもなくても自分の場合、何をどういう姿勢で書いていくのか、日記ですらブレブレなわけですが(苦笑)

そんなわけで

ようするに気にせず書いていこうぜ?って言いたいのです。好きなことを書くというのは素晴らしいことです。好きなことばかりでは食っていけない、という問題もあります。だからといって、好きなことを諦めなくてもいいし、好きなことを書けていない状況を、否定する必要もありません。

色々な人の意見や、在りかたを知ることは大事です。でも、書く動機を他人と比べる必要はなくて、自分がどう在りたいかだけでいいと思います。僕は自分がどう在りたいかを、自らに問い続けていくつもりです。もっとも、その答えは価値観と連動していて、どんどん変化していくはず。いま自分が書く目的や方向性がブレブレなのは、自分が変化しているからだと思う。

ということで、今後もその時自分が書きたいことを書いていきます。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

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