サトー佐藤の正体。2022.6.15㈬ #5
上記の引用は、私の代名詞である。
私はいつもこのように自分に言い聞かせて、三十一年間を生きてきた。
「自分の長所は何ですか?」と聞かれたら、いつも上記と同様の意味を持つ発言で答えてきた。
上記の私の代名詞は、言葉をそのまま素直に受け取ると
『常に冷静沈着で、何時も最後まで諦めず物事に取り組み続けている人』をイメージするかもしれない。
具体的な人物像を上げると、『頼れる上司』や『チームリーダー』的な人物を想像するかもしれない。
しかし、誠に大変申し訳ない。
本当の私は、上記の人物像とはまったく似ても似つかない人間だ。
私の本当の正体。それは。
冒頭で代名詞として掲げた言葉を、極端に粗探しすることによってはじめて垣間見える。
正解はこちらである↓
私自身としても誠に残念なのだが
これが私の本来の姿である。
『サトー佐藤の正体』である。
もう遠慮など全くせずに、読者の皆様の気の赴くまま見下してもらって構わない。
だって
本当にこんな人間なのだから。
一つ勘違いしてもらいたくないのだが本投稿は、私の自虐行為をお見せすることがそもそもの目的ではない。
現在、特に追われている仕事上の業務も無く、プライベートでも感情的にフラットな状態で日々過ごせている自覚がある。
それ故に、こうしてエッセイの執筆にも時間が取れているし、書きたいことも沢山山積みになっていて、「まずはどれから手を付けようか」とウキウキ過ごしていた。
私は、そんな今だからこそ。
自分の『長所』に改めて注目し、冷静沈着な目で客観視を試みることにしたのだ。
その結果
今の私、「サトー佐藤」が、このような愚鈍な人物であることが判明したのである。
私はこれまで『どんな窮地に置かれても試行錯誤を行い続ける』ところが自分の長所だと受け取っていた。
この自分の長所を、誰に対しても堂々と吹聴する行為を、少なくとも十年間近くは繰り返してきた。
恥ずかしながら、自身の長所に対する『自己認識の仕方』が少々甘かった。
というか、だいぶん手ぬるかった。
私は自分の特性を、少し肯定的に受け入れすぎていたのである。
しかも、更に救いようがないことに
などという恥ずかしい勘違いまでしていたのだから、私は本当に『愚鈍』である。
思想に偏りのある、謝った自己認識を長年行い続けていたことに、本日、ようやっと気がついた。
私は、自身の長所に対してこれまで一度たりとも批判的な視点を向けていなかったようだ。
あまりにも自分のことを信じすぎていたのだ。
約十年単位で行っていた過ちに気がついた現在の私は、自身のこれまでの行いを猛省するとともに、深く悔悟した。
まるで、既に非行に走ってしまっている息子がある日警察沙汰の事件まで起してしまったときのような猛省と悔悟であった。
「こうなる前になんとか止められなかったのか…」、と。
残念だが
息子が『非行に走る前』、もしくは『非行に走ってまだ間もない頃』から、必死になって止めようとしなければいけなかったのだ。
やはり私は、窮地に気づくのが遅く、試行錯誤をはじめるのもギリギリである。
これがサトー佐藤という人間なのだ。
私はこれまでに、何百回、いや何万回と「自分には何かしらの才能がある」と思い込もうと、試行錯誤を重ねてきた。
生んでくれた両親や、私と結婚することを選んだ妻、長年の友達、これまでお世話になってきた人達、皆のためにも「自分にはきっと何かがある」と、そう信じ続けてきました。
だけど、誠に残念なのですが
今の私にできる唯一の試行錯誤。
それは、「自分には何も無いということを素直に受け入れる」ことなのではないかと、今の私は結論しました。
すまない。
試行錯誤の結果、今の私にはこれ以外の答えは導き出せなかった。
だから申し訳ないのだが、今はなんとかこの答えで納得してくれ。
これが今の私の本心である。
最後に
これから私が述べる発言は、読者の皆様からすると矛盾しているように聞こえるかもしれません。
だが、何の躊躇もなく言わせていただく。
猛省と悔悟を続けた末に私は
自分の無計画さを素直に受け入れることにしました。
試行錯誤をはじめるのがいつも遅いことについても、これまでと同様なるべく大目に見ることにします。
そして、今は一歩ずつしか前へ進めないことも、許します。
その代わり
自分の人生を絶対に諦めないでください。
私の代名詞が、いつか改めて「長所だ」と自信を持って言えるようになるその日が来るまで、絶対に諦めないでください。
一度、いや、数回諦めるのは許します。何回諦めても許すでしょう。
でも、いつか絶対にまた戻ってきて下さい。
それだけが、私との約束です。
2022.6.14 サトー佐藤
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