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愚かな行為(短編)



そして、僕は手のひらサイズの小さな瓶をゴミ箱に捨てた。



人間は食が必要なのです。栄養を摂るためにも、娯楽のためにも、生きていくためにも、食が必要なのです。
しかしそれは本当に必要ですか?
栄養は点滴で事足りますよね?
娯楽は別のものでもいいじゃないですか?
栄養さえ取れば充分生き生き息できます。
すなわち、人間の身体における大きな欠点が食をしなければならないこととも言えるのです。
なぜなら材料を買い揃えて切り揃えて焼き揃えて皿に盛り揃えてテーブルに並べ揃えていただきますをしなければならない。
そこにかかる時間とお金。実に無駄ではありませんか?

と有能な科学者が唱え、そして大衆の人々は同意をしてしまったのがはるか遠い昔のお話。
そこから長い時を経て人間は「食」という最大の欠点を克服した、と小学校の歴史で学んだ。


ゆっくり目を覚ました僕は冷蔵庫を開けるとそこに並べてあった小さな瓶のひとつを取った。
円柱で手のひらサイズにおさまる瓶は透明で中に液が入っているのが見える。僕は先端にあるゴム状の蓋を取った。小さな針が突き出している。
僕はその瓶を首に当てる。小さな針が僕の首筋に侵入していく。
刺激は一瞬。
痛みは無い。慣れているのだ。
10秒数えて僕は瓶を首から離した。

瓶の中の液体はもう無かった。



「面白い話聞いたんだけど」と友人は気持ち悪い笑顔を浮かべて言った。
「なに?」と僕は応えた。
「このご時世に料理を商売してる場所があるらしい」

既に淘汰されているはずの「料理」を商売してる場所。そこにとても僕は惹かれた。
僕は生まれてこの方とても優等生だった。わるいこととかノーセンキュー。
人と違う、をしたことがなかった僕にとって、「料理」という二文字に惹かれてしまった。

鼻の奥を殴られたかのような刺激臭を潜り抜けて僕は友人のあとをついていた。
天まで届くようなビルが立ち並んでいる。その建物と建物の隙間を友人は練り歩いていく。
太陽があんなに高く登っているのに、光が全く届かないその路地は足を踏み入れるともう元の世界には戻れない、そんな気がした。
その一軒家は首が痛くなるほど高いビルに囲まれて誰も見向きもしない道端の石のようにひっそりと建っていた。周囲のビルが太陽の光を防いでいて、今の時間が正常に掴めないくらいに薄暗かった。
「ここだよ」と友人は指さして言った。

ここが淘汰された「料理」を提供する場所。

僕の胸の鼓動は僕の体を響かせていた。友人は平然とその一軒家に入った。僕も友人のあとを追って入るしかできなかった。


「おまたせしました」
友人が適当で!と伝えて数十分後、温かみのある色をしたチェック柄のエプロンを付けた豊満な女性は両手に載せたトレーを僕らの目の前に置いた。
それは大小の皿が四つあった。
集合体恐怖症の人が泡を吹いて倒れる様な、白くて丸状のものが数多に連なる山。
薄明るい茶色の霧の中で深緑の小さな状紙が泳ぐ海。時々四角で白い島が浮き沈みしている。
小さな部屋にいくつかあった四角という形の表現が合ってるのか不安な程に不安定な輪郭を描いた茶色の頭皮の色は緑だった。
そして、大きく置かれた丸い塊は所々赤かったり黒かったりしていて、隙間から少しだけ茶色のかかった透明な汁が溢れていた。
見たことも無い物の数々。

これが料理、というものなのか。

「ーーーー定食になっております」と豊満な女性は言った。
目の前の物体に見とれていた僕は定食よりも前の単語を聞き取れなかった。馴染みのない単語だった。
豊満な女性はそっぽ向いて行ってしまった。

「ねえなんて言ってた?」
「まあとりあえず食べよう」

友人はもう既に食べていた。棒状のそれは先端が丸くて中央部に向かってへこませていた。
それでその物を取って乗せて口に運ぶんだな。
僕は友人の仕草を真似しながら、その物体を取って乗せて、口に運んだ。

食べるという行為は愚かなことです。とイカれた科学者は言った。
そして、「食」を克服した人間は長い歴史の中でようやく食べる楽しさを過去に置き去りにした。多くの人類がその行為を忘れていて、そしてそれを知らない世代が社会を回している。
しかしいつだって陽のあたる場所に影はある。
陽が強ければ強いほど影は深く濃いものになる。
愚かな行為をあえてやる人々はいつの世にだって存在している。

愚かな行為である「食」をあえてやるその場所は、僕の心を鷲掴みにした。

愚かな行為をあえてやる僕に酔いしれていたし、口から脳に受ける雑多な刺激は癖になるし、小さな瓶からは到底得られない快楽が、そこにあった。

「食べるというのも悪くないだろ」と友人は気持ち悪い笑顔を浮かべて言った。
「たしかにね」僕は否定する要素が無かったのだ。
「またやろうな」

暗いところから光の元へ。僕は鞄から小さな瓶を取り出した。今日の昼に投入する予定だった小さな瓶。ついさっき食べるという愚かな行為をしてしまった僕には不要なもの。

そして、僕は手のひらサイズの小さな瓶をゴミ箱に捨てた。


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