【連載小説10/最終回】ナイトスイミング
第10章・みんなの話
マーサと三郎が《素食飯店》に到着したとき、スーパー亀の子たわしを積んだトラックの姿は店になかった。
まさか、まだ到着していないということはないだろうから、恐らく納品はもう済ませたのだろう。
幸い佐々木さんの姿もまだ店にはなかった。
マーサは真っ先に店内を見渡した。納品されたたわしがどこにあるのか気になったのだ。
ねじり鉢巻きをした店主が厨房で、ひとり黙々と中華鍋を豪快に振り上げているほかは、取り立てて目につくようなものは何もなかった。
そこに伊藤さんが店に駆けつけた。予告していた午後四時を十五分ほど過ぎての到着。
「ご苦労さん、けっこう遅かったじゃないか」
「悪い悪い。空港からここまで予想以上に混んでてさ」
息を切らせた伊藤さんがマーサの隣に座り、ウエイトレスが持って来たお手ふきで額の汗を豪快に拭き取った。
やがて佐々木さんも店内に現れた。幸い伊藤さんがずっと追跡してきたことなど気づいていないようだ。
事前に聞いていたとおり、佐々木さんは一人ではなかった。同伴者を二人ほど連れている。
「客ってのはあの人だな」
「一番かっぷくのいいのが佐々木さんだろ、んで、その隣にいるのは会社の部下の五十嵐って人。それから一番手前のサングラスをかけた人が山野選手。確かパラリンピック選手で過去二大会、ロンドンとリオに出場した現役アスリートだ」
事前に入手しておいた情報を、伊藤さんはまんざらでもない態度で披露した。
「佐々木さんは今んところ、日本人で唯一の現役委員だ。大会関係者とかなり強力な人脈があるのは間違いない。調整しなければならない決定事項は山のようにあるはずだよ。今回尾行してても一人でいるところはまず見かけなかった」
その口ぶりから、伊藤さんが興奮しているのはよくわかった。
佐々木さんたち三人は、入り口に近い六人がけのテーブルに陣取った。
対して、マーサたちはその二つ奥にあるテーブル席。たまたま店内にはこの六人しかおらず、運が良いのか悪いのか佐々木さんたちの話す内容は否応なく耳に入ってきた。
いつ彼らに接触するべきか、その頃合いを見計らっているのだろうか、伊藤さんも三郎も佐々木さんたちの会話に必死に耳を澄ませている。ただマーサだけは、納品されたスーパー亀の子たわしの行方を必死に探し回っていた。
奥の勝手口から厨房に入ってくる店主の姿が視界に入った。
彼は段ボール箱を抱えていた。箱には亀の子たわし本舗の文字。あれだ! 案外すんなり見つかった。
マーサはひとり興奮した。中に入っているたわしを一つでいいから、どうにかして手に入れたいと思った。
ウエイトレスが佐々木さんたちのテーブルで注文を取っているあいだに、伊藤さんがまず立ち上がった。そしてウエイトレスと入れ替わりで佐々木さんたちに近づいた。
「突然すみません。間違っていたら申し訳ないんですけど、ひょっとして山野選手じゃありませんか?」
意外なことに伊藤さんが最初に話しかけたのは、佐々木さんではなく、山野選手だった。
彼の演技はそこらへんの貧乏役者よりもずっと、迫真の演技に徹していたと思う。山野さんに握手を求め、嬉しさを身体全体で表した。そこに三郎とマーサがなだれ込み、一気に場を和ませる。
「えっ、あの山野選手? サインいただけませんか!」
三郎が矢継ぎ早に話しかけた。山野選手は慌てる素振りを見せず、笑顔を振りまいた。
「ぼくのこと、よくご存じですね」
「当たり前ですよ。だって山野さんはパラの自転車競技では国内の第一人者じゃないですか」
伊藤さんの言葉に、山野選手は目を輝かせた。
「正式にはタンデム自転車っていう競技名がついてます。前後二人乗りの自転車競技でしてね。前に晴眼者のパイロットが乗り、後ろに競技者が乗って競うタイムレースです」
そう言われて見ると、確かに山野選手の体格は競輪選手並みにがっちりしている。両肩から両腕にかけての盛り上がった筋肉はそのためのものだろうし、スーツを脱げば、さらに体格の良さがわかるに違いない。サングラスで山野さんの表情はわからなかったが、非常に気さくな印象を受けた。
しかしこのやり取りに佐々木さんはいい顔をしなかった。
「悪いんやけどな、今ちいと忙しいんよ。彼のサインが欲しいのんか? だったらほな山野君、悪いけど、今この人たちにささっと書いてあげてくれへんか」
佐々木さんはかなりの関西訛りだった。少々聞き取りにくいが、威厳のある重厚な声質で辺りを支配した。
「あ、サインは後でも構いません。じつは佐々木先生直々にお願いがあってそれで近づきました」
三郎がさっそく切り出した。
「はぁ? わしにか?」
「はい」
「山野君じゃなくて、わしかいな」
佐々木さんが頭を掻いて、笑い声を上げた。自分が目当てだったとわかると途端に機嫌がよくなった。
「ようわしの名前知っとんな? あんたら、この店にわしに会うためにわざわざ来たんか?」
「いや決してそんなことは。たまたまです」
三郎がとっさの嘘をつく。
伊藤さん、三郎、そしてマーサの三人が、一列に佐々木さんたちのテーブルに沿って並んだ。
そのとき、佐々木さんたち三人がオーダーした品がテーブルに運ばれてきた。三人とも揃って五五〇円の鶏ニラもやし定食。
「嘘や。今とっさに隣に目配せしたやん。そんなもんすぐバレるでな」
佐々木さんが箸をつかんだまま、不満を露わにした。
これはマズイ、心証が悪くなる。ヤバいと伊藤さんも思ったのだろう、急いで名刺を取り出した。
「申し訳ありません。わたくし実はこういうものです」
「ほらな、しっかり会いに来とったんやいか。ちゃんとわしとの面会はアポをとってもらわんと…あんた、ジャーナリストか?」
佐々木さんは名刺をじっと見つめている。
伊藤さんは頷いた。
「ジャーナリストっちゅうもんは、いっつもアポなしで突撃取材みたいなことするやろ? かなわんわ」
佐々木さんはそう言ってから、また頭を掻き、食べ物に集中した。箸で鶏肉を掴み、豪快に口に投げ入れる。
「いえいえ。そんなことは決してございません。先生がこちらの店をごひいきにしてることぐらい、噂では以前から聞いておりました」
「だからってな、そういう待ち伏せみたいなことをされるんが一番迷惑なことぐらい、知っとかんと。あんた、社会人ならそんなん常識やで」
と、そのとき五十嵐さんがテーブルを叩いた。
「ちょっと、キミたち無礼じゃないか? どうして何の許可もなく黙ってわたしたちのテーブルの前に立ってるんだ。先生に用事があるなら、事前にアポイントを取るべきじゃないのかね」
五十嵐さんの声にびっくりして、伊藤さんが一歩下がった。三郎もマーサも後ずさりした。
一段高い声で、五十嵐さんが付け加えた。
「今度またスイスでIPCの総会が行われるんで、先生はまた明日から現地に出張なんです。そのあいだ、この店の鶏ニラもやしはお預けになってしまう。つまり食べられないんですよ。ですから日本にいる今のうちに、先生は心して胃に収めているんです。先生の貴重な食事の時間を邪魔しないでいただきたい。先生はこの店の料理が大好物でしてね。ねえ先生、そうですよね」
「う、うん…ま、そやな」
確かに佐々木さんは食べることに一生懸命で、話どころではないようだった。
「来週の総会で、どのような話し合いがもたれるんでしょうか?」
怒られたばかりなのに三郎は強引に訊ねた。五十嵐さんが仕方がないなぁ、という顔をみせる。
でもこちらも急いでいた。バカ正直にアポを取ってたら、いつになるかわからない。それでは遅きに失するのだ。
ため息混じりで、五十嵐さんが質問に答えた。
「二〇二〇年の東京大会の追加種目をどうするかという検討会議が行われる予定です。われわれJOCは事前に追加種目の提案をしていましてね。これは、つい二カ月前に決まったアジェンダに沿って行われるんですよ」
それを訊いて三郎はすかさず畳みかけた。
「で、その追加種目なんですけど、今からさらに追加種目の候補枠を広げていただけないでしょうか?」
そう言うと、佐々木さんと五十嵐さんがそろって箸を持つ手を止めた。
「追加かいな?」
箸を宙に浮かせたまま、佐々木さんが三郎をじっと見据える。
「はい。じつはそのお願いをしたいと思いまして、こうやっていきなり話しかけたわけなんです。いかがでしょう? お願いできないでしょうか」
伊藤さんが頭を下げた。
「是非、お願いします」
「ほんま、けったいなやっちゃな」
佐々木さんの口からそんな言葉が飛び出したが、伊藤さんは頭を下げて強引さを貫いた。
三郎も頭を下げた。
急いでマーサも頭を下げたが、このとき秘かに横目で厨房の様子を観察していた。店主が厨房脇の棚に段ボール箱を置いたからだ。箱の側面には押し入れで見たのと同じ、亀の子たわし本舗の社名が書いてある。間違いない。その中にスーパー亀の子たわしが入っているはずだ。
「追加種目の候補枠を広げるっちゅうたかてな、そんなもん、おいそれとかめへんよとはよういきまへんわ。国と国とで決めることやさかいな。そんでも一応、あんたらの希望を訊いておきましょか。それはどないな競技種目なんですの?」
佐々木さんはそう答えてから、腕を組み、深いため息を吐いた。
まずテーブルの対面に三郎たちを改めて座らせ、それから一応参考までにという断りを入れた上で意向を訊いた。
「追加種目の候補にしていただきたいのは、ナイトスイミングというスポーツなんです。ただ、そのネーミングはぼくが勝手にそう呼んでるだけで、決まった呼び名はありません。要するに真っ暗な照明のない室内プールで行う競泳なんです」
三郎が冷静に説明した。
「どないしてまた、そんな環境で泳がなきゃならんの?」
三郎はマーサを佐々木さんに紹介した。灰化症という症状を持つ難病患者であることや、太陽光を浴びることが出来ないことも打ち明けた。
「なるほど、それは気の毒ですわな」
佐々木さんはマーサの容姿を見て、頷いた。
「しかしやな、結論を先に言うたろか。次の二〇二〇年大会の追加種目の候補におたくのその…」
「ナイトスイミングです」
「ああ…そのナイトスイミングっちゅう新スポーツを、実施競技種目の追加候補リストに加えるのは無理や」
マーサはもちろん、伊藤さんも佐々木さんのこの言葉にどのような言葉を返していいのかわからなかった。
「もちろん国内に競技連盟がないことや、IPCが認定する国際大会がないことも重々承知しています。ですが、そこを何とか…」
三郎は熱弁を振るった。
「わかっとるがな。競技連盟が発足できるぐらいの競技人口と知名度があるんなら、最初からわしになどわざわざ頼みに来ないっちゅうねん。そやろ?」
佐々木さんはこちらの要求に対して一定の理解を示したが、険しい顔つきはそのままだった。
「いや、無理っちゅうのはちと言いすぎかもしれんな。しかしそんでも可能性は、極めて低いわな」
佐々木さんも身をテーブルの上に乗り出し、熱弁を振るった。
「残念やけどな、候補リストに加えるタイミングが遅すぎるんですわ。来週から始まる総会の議題に今更加えたいと言い出すのは、あまりにも非常識っちゅうもんや。国際会議にも国際間のビジネスに似た商慣行みたいなもの、暗黙のルールっちゅうもんがあるんや。万が一、日本だけそんな例外的なことが許されたら、今後同じようなことが他国でも常時行われることになる、そやろ? それでは総会の議事進行が滞ってしまうんや」
あっさり否定されても、三郎の顔はほとんど変わらなかった。意外にも予想していたことのように。
二人が佐々木さんときわどい交渉を進める一方で、マーサは段ボール箱に近づくタイミングを今か今かと見定めていた。
「でも、できへんこともないで」
しばし沈黙のあと、佐々木さんが口を開いた。彼は店内をぐるりと見渡してから、三郎にぐんと顔を近づけた。
「そのためには、どうすればいいでしょうか?」
三郎も椅子から腰を上げ、顔を近づける。
そのとき店長が段ボール箱を開けている光景が目に飛び込んできた。三郎と佐々木さんの交渉に耳を傾けつつ、マーサは今まで以上に店長の動きをじっと事細かに観察した。
段ボール箱の中身を店長が確認している。スーパー亀の子たわしをいくつか手にとって、手触りや重量などを確かめている。
二つほど調理場の上に置いたとき、勝手口から別の納入業者が現れた。注文していた干し貝柱が入荷したらしい。店長が勝手口で業者と話し込んでいる。
今だ。マーサはそう思い立ち、テーブル席を立った。
「ちょっとトイレ」
そう言って、マーサは店内奥に向かった。
途中で厨房の前を通り過ぎる。そのタイミングでたわしを一つ失敬した。やった、うまくいった。
ゲットしたスーパー亀の子たわしを素早くポケットに入れ、マーサは女子トイレに入った。もちろん用を足す目的ではない。
しばらく時間を置いてから、用を足すふりをするために水を流し、トイレの扉を開けた。そして何事もなかったかのようにテーブル席に戻る。
扉を開けたときに目にした光景は、今でも忘れられない。
「どうかこれでお願いできないでしょうか」
三郎はテーブルの下に手を伸ばし、分厚い紙袋を佐々木さんに手渡そうとしていた。
ほぼ直感的に紙袋の中身が何なのかマーサにはわかった。例のお婆さんのへそくりの入った封筒。それを丸ごと全部。
口のまわりにたっぷりラードをまとわりつけた、佐々木さんが不敵な笑みを浮かべ、さも当然という態度で受け取った。
「どうぞお納めください」
彼は胸元に受け取った封筒を引き寄せると、こっそり中身をのぞき込んだ。
マーサはその一連のやりとりをトイレの扉の陰から、じっとうかがった。何か言わなければいけないと思いながら、店内の張り詰めた雰囲気に圧倒され、何も口に出せなかった。
大切な木村家の財産をこんなことのために使わないで…。そのひと言がなかなか口先に上がってこなかった。
佐々木さんがにっこりと笑った。
「なんか半端やなぁ」
佐々木さんの要求はよりストレートに、過激になった。
「あとどのくらい…ですか」
「そんなこと、よう口に出して言いひんわ」
佐々木さんはそう呟いて豪快に笑った。
三郎は額の汗をぬぐい、深く息を吸い込んだ。
そしてもう一つ、同じくらいぶ厚い封筒の束をリュックから取り出した。あれはどこから捻出した金だろう。マーサは咄嗟にそう思った。
もしかしたら開錠番号がわかったのか? ほとんど自分のことのように三郎の一挙手一投足に、目が釘づけになった。
そして肝心の問題の行動は、テーブルの下から手渡そうとした直後のことであった。ずっと沈黙していた山野選手が椅子からすっくと立ち上がり、銃口を突然三郎の頬に押しつけたのである。
「その金をこっちに寄越せ」
銃口を突きつけられた三郎は、すべての動きを封じられたに等しかった。
「お前、もっと持ってるんだろ? 隠しても無駄だぜ。お前の親父が経営していた病院のどこかに巨大金庫が隠されてるってことぐらい、こっちはとっくにお見通しなんだからな。ほら、出せ。出せって言ってんだよ」
山野と呼ばれていた男はそう吐き捨てると、銃筒で三郎のあごを小突き回した。
「そんなもん知るか!」
三郎の声は十分恐怖で震えていた。
「お前…山野じゃないのん…か? い、いったい誰や!」
佐々木さんが両手を挙げ、弱々しい声で呟いた。どうやら男は佐々木さんたちに接触する前から、山野選手に成りすましていたらしい。
厨房にいた店主も明らかに狼狽していた。彼は、静かに、誰にもバレないようにスマートフォンを操作していた。一一〇番にかけようという魂胆なのだろう、でも気がどうしても競ってしまうようで皿を数枚床に落とし、あっけなく男に気づかれた。
「おい、厨房でナニ、こそこそやってんだっ!」
そう言うなり、突然男の銃が厨房に向かって火を吹いた。
粘り気を含んだ赤い液体が主人の唇からどっと吹き出し、近くにいたマーサの胸にまで飛び散った。
主人は厨房に倒れた。
鉄板鍋やらザル、バッドなどが床に落下して、店主の背中にたくさんの食材が勢いよくこぼれ、仕込んでいた最中のスープやダシ汁がしたたり落ちた。
「すべてわかってんだからな!」
男は不敵な笑みを浮かべ、再び銃口を三郎に向けた。そして自分の左肩に手を回した。パットが外されて床に投げ飛ばされる。左肩の盛り上がりはあっという間に消え、右肩だけが異様に盛り上がったその姿を見て、ようやくマーサは目の前に立つ男がコブ男だと気がついた。
三郎の命が狙われているのに、マーサはどうしたらいいのかわからなかった。
足が動かないのだ。ただ端から見ているだけだった。
「おら、うだうだしてねぇで、さっさと出せって言ってんだよ!」
「これ以上持ってません」
強ばる三郎の声が店内に轟いた。
「嘘なんてつくんじゃねぇぞ! お前らの金庫には俺たちの金がたんまりと入ってんだ。それで全部なんて口が裂けても言えねぇはずだぜ。まさか忘れちゃいねぇよな? 今から自宅に戻って確かめてみるか? それともよ、お前んちの金庫の番号を教えてくれんなら、それでもいいんだけどよ。ん? どっちにする?」
店は地下駐車場の中にあった。そのため銃声が店内に響き渡っても周囲に異変はまったく伝わっていないようだった。
マーサは周囲を見渡した。
猫背がいないことに気がついたのだ。
必ず近くにいるはずだ。そう思い立った直後、背中に何か冷たいものを感じて緊張が全身に広がった。
「動くんじゃねぇぞ」
マーサは背後の声に聞き覚えがあった。まさに猫背の声。
「動いたら撃つ」
男子トイレに潜伏していたなんて…。いずれにせよ、まんまとハメられた。佐々木さんたち二人もこの状況は予想外だったようで、顔が怯えきっている。
「その子は関係ない! 銃を向けるな!」
三郎が猫背に向かって叫び声を上げた。彼の頬にコブ男の握る銃がぐいと食い込んだ。
「どっちにするかって訊いてんだよ。お前は訊かれたことに答えりゃいいんだよっ、ボケ!」
コブ男の拳が三郎の腹にズシンと決まった。苦しむ三郎に、マーサはもう目を開けていられなくなる。
その直後父親がアカビトの将校に殴られている光景が目の前に現れ、マーサは幻覚を見ている錯覚に陥った。さらに店のほうに向かって走ってくる人影が窓の外に見えたとき、これは間違いなく幻だと思った。
ところが猫背はその幻影に銃を向けたのだ。すぐ自分の背中から銃口が離れたことに気づき、自分にできることはないかとマーサはとっさに考えた。形勢を挽回するような秘策はないか…。
相変わらず両足は恐怖で凍り固まっていて動かない。今頼れるのは頭脳だけだ。
何気なくまさぐったポケットに、さっき段ボール箱から奪い取った新品のたわしが入っていた。こすれば何でも落とすことのできるスーパー亀の子たわし。これで背後にいる猫背をこすったら、どうなるだろう?
大きな物音とともに店のドアが開いた。入ってきたのが荒井先生だと気づいたとき、それまで張り詰めていた緊張の糸がほぐれマーサは床にへたり込んでしまった。
先生に向かって二発の銃が豪快に撃ち鳴らされた。
同時に三郎がコブ男の背中につかみかかり、薄汚れた店内に鮮血が飛び散った。
荒井先生が床に倒れているのが見えた。
コブ男と三郎は取っ組みあいの状況からテーブルにぶつかり、椅子をなぎ倒し、店内の床という床を血で染め上げる大乱闘を繰り広げていた。三郎の苦しむ声とコブ男の泣き叫ぶ声が混じり合い、辺りはまさに壮絶な地獄絵図のようだった。
「誰か! 警察に通報してくれ!」
三郎の呻きだった。腹の底から絞り出した声。
床にコブ男の頭がこすりつけられて、うめき声が双方の口から漏れはじめる。
「こ、こ、腰ぐねって動けへん。五十嵐、五十嵐っ!」
呆気にとられていた佐々木さんがようやく我に返り、隣の五十嵐さんを怒鳴りつける。
だが、五十嵐さんはまだ茫然自失の状態から脱し切れていない様子だ。
「五十嵐っ! 返事せんか」
「は、はいっ」
佐々木さんが五十嵐さんに携帯電話で即刻一一〇番させた。
「それと一一九。救急車もや!」
取っ組みあいでコブ男の手から離れた拳銃が、床をすべって、マーサのほうに転がってきたとき、ようやく自分の身体を動かすことができた。匍匐前進して銃をつかみ取り、マーサは背後の猫背に銃口を素早く振り向けた。
驚く猫背の顔に向けて素早く引き金を引く。だが撃鉄はむなしく空を切った。
猫背が笑い、今度はこちらの番だとばかりに右足でマーサの腹を思いっきり蹴り上げようとした。
が、マーサは激しく抵抗した。その足にしがみついて相手をよろけさせ、さらに倒れる猫背の顔に、ありったけの力でたわしをこすりつけた。
それがどれほどの苦しみか、漫画の世界に戻った今でも、そのことを思い出すたびに眠れなくなる。特に遠洋漁業から帰ってきたばかりの父をアカビト軍が待ち構えていたときの光景は昨日のことのように脳裏に焼き付いている。スパイ容疑で連行されることに強く抵抗した父。水中特高に捕まる前に逃げろ、とわたしに呟きながら相手の銃弾に倒れていった父…。その無念さを思い起しながら、マーサは今までにないほどの怒りを込めてたわしをこすりつけた。
そして店の入り口の前でコブ男と格闘し、もつれ合う三郎のもとに駆け寄ると、ほとんど無意識にコブ男の脇腹を思いっきり蹴り上げていた。
これ以上愛する人が殺されるのは、もうまっぴら。そのやるせない思いの丈を足に振り向け、渾身の力で蹴り上げた、ただそれだけのことだった。
仰向けで倒れている三郎に近づき、彼のほおにマーサは自分のほおをすり寄せた。
「今救急車呼んでもらってるから、もう少し頑張って!」
マーサは涙があふれ出した。
次から次へとこぼれ落ち、止まらなかった。家族以外でこんなに涙を流したのはこれが初めてだった。
入り口のドア付近で倒れていた荒井先生が、かすかに呻き声を発した。
「お前…ひょっとして、マーサなのか」
先生は生きていた。
マーサは先生のそばに寄り添った。
「今、救急車が来るから、先生、それまでもうちょっと頑張って」
「すまない。本当に悪かったな」
先生からの突然の謝罪の言葉。マーサは目の前が真っ暗になる。
「そんなことはもうどうだっていいわよ」
「いや、全然よくないさ。お前がいなくなって、ようやくわたしは自分の馬鹿さ加減を思い知ったんだからな。わたしはお前たち、作品の登場人物の気持ちをまったく考えず、これまで漫画を描き続けてきた。それが諸悪の根源だったんだよ。それをまずお前に謝っておきたい。もちろん、今さら何をどう謝っても許してもらえるとは思っちゃいない。でも、これだけはお前に言っておきたい。お前はもう自由だ。好きな人のところへ行きなさいとね」
「やだ、先生ナニ言ってんの? それどういうこと?」
突然今までの先生にはなかった姿勢と考えを目の当たりにして、マーサはうろたえた。
「じつは当分のあいだ、わたしは漫画とは距離を置かなければならなくなったんだよ。そういう生活を送ることに決めたんでね」
「もっと詳しく教えて、それってどういう意味? わたし、先生の漫画にまた戻ることに決めたのに」
「お前は木村三郎って男を知ってるか?」
先生はそう呟いた。
「ええ、知ってるわ」
マーサはそう言って再び三郎を膝に乗せ、ほおを撫で続けた。彼はぐったりしてあまり動かなかったが、二人のやり取りを聞いて半身を起こし、立ち上がろうとした。
「え、先生ってもしかして…あの荒井先生?」
身体を起こした直後に、彼の口から出た言葉がそれだった。
マーサは三郎に荒井先生を紹介した。
「ああ、君か、君が木村君だったか。そうか、君の描いた新作漫画はなかなか少年社でも評価が高いらしいよ。谷口さんがとても喜んでる」
「先生、そのことで一つお願いがあるんです」
そう言うと、マーサは涙ながらに訴えた。先生の作品の続編を木村君に描いてもらいたい。彼に『夢から抜け出せない男』の続編執筆の許可を与えてほしい、と。
荒井は快諾した。続編を描いた若手がいるという話はすでに訊いており、特に驚く様子もなく淡々と了承した。
「ところでその…谷口さんというのは誰ですか?」
左腕を痛そうに手で押さえながら、三郎は訊ねた。
「わたしの担当編集者だった人さ」
荒井は答えた。
「ぜひキミの原稿を彼に渡してもらいたい。できれば今すぐがいいんだけどね。原稿はどのあたりまでできてる?」
マーサは店の壁に掛かっている壁時計を見つめた。午後四時三十五分だった。
「今すぐはとても無理。だって三郎君、こんなに苦しんでるんだもの」
マーサは三郎の胸に顔を埋めた。涙がまた溢れ出す。あなたはこれから漫画家になるんじゃない、頑張って! そんなことをマーサは心の中で唱えた。
「いや、ぼくは大丈夫だよ」
マーサの言葉が三郎にまで届いたらしい、三郎は気丈に振る舞った。
「でもおでこの出血、ひどいわ」
「大丈夫。原稿はあと一日もあれば書き直せるんじゃないかな」
「駄目よ。右腕だってまだ薄っすら青あざが残ってるのよ? 今は治療に専念しなくちゃ。書き直すとかそういう問題じゃないわ」
と、そこへようやく警察車両が店の前に到着した。
「先生来ましたよ!」
さらにひとりの女性が店に現れた。やたら急いで走ってきたらしい。息づかいが激しく、苦しそうだ。馴染みのない女性だったが、木山という女性だと荒井が教えた。
「書き直しってのは具体的に、どんな作業が残ってるんだ?」
先生がマーサに問い質した。
「あと、このたわしを描き加えるだけ、それだけなんだけど」
マーサはそう言って、店からくすねたスーパー亀の子たわしを荒井に見せた。
「ほら、現物はこのとおりちゃんと持ってる」
「じゃあ、わかった」
荒井はそう言うと、木山さんを呼びつけた。
「今から谷口さんに電話してくれ。そして今日中には必ず原稿を届けると伝えなさい」
木山さんは店内の惨状を見てひどく動揺していたが、少年社に電話する冷静さは備わっていた。
「わかりました。先生、本当に原稿、今日じゅうで大丈夫なんですね?」
「大丈夫、わたしを信じろ。たわしの描写は俺が書き足す。約束を守ってこそプロってもんだ」
その言葉を聞いて、木山さんはプッと吹き出しそうになったが、先生の表情がこれまでになく真剣だったこと、そしてお酒を飲んでいないことを念のために確認した上で、その言葉を信じることにした。
彼女は谷口さんに連絡を入れ、先生の意向を伝えた。
「谷口さん、了承してくれましたよ。とっても嬉しがっていました。入稿データは間違いなく、今日中に印刷所に直接持って来てほしいとのことです。谷口さんがきょう一晩中、印刷所の輪転機の前で、先生の原稿が届くのを待ってくれるそうです」
その話を聞いて顔をほころばせる荒井の顔を、マーサはようやく見ることができた。
まもなく数人の警察官と救急救命隊員が店内に現れた。怯える佐々木さんと五十嵐さんがパトカーに飛び込むように乗り込み、厨房では鑑識班を呼びつける捜査員の声が聞こえた。
やがて救急車もやって来て、黒蜜団の二人と三郎がストレッチャーに乗せられ、店を離れていった。
彼は自力で病院に向かうと言い張ったが、出血具合が思いの外ひどく、誰も彼の主張を鵜呑みにすることはなかった。
「マーサ、じゃあまた後で」
「うん、三郎君もね」
これって永遠の別れになるのかしら? 今思えば、意外なほどさっぱりとした別れだった。
でも本当に本当、マーサはそれほど悲しさを感じることはなかった。だって今後の漫画の展開次第では三郎君をこっちの世界に引っ張り込んじゃってもいいんだしね。
エピローグ
荒井が銃弾に倒れたというニュースはその日のうちに巷に広まったが、ご存じのとおり、もちろんまったくのガセである。
いちはやく事件現場に駆けつけ、記事を書いた新聞記者が荒井の倒れているところを目撃した。
その光景がそのまま誤報となって世間に出回った、というのがその原因だった。記者は誰にも裏を取らず、興奮するままにSNSに投稿した。警察にぶら下がり取材して真相を知ったころにはもう、じゅうぶんデマが拡散した後だったようだ。
記者は目撃した光景がすべてだと信じて疑わなかったらしい。
だから佐々木さんや五十嵐さんに聞き込みすることもなかったし、贈収賄の件はもちろん、次期東京パラリンピックでナイトスイミングを正式種目にする密約が交わされた記事が表沙汰になることもなく、たちまち雲散霧消してしまった。
ただし二発放たれた銃弾のうち一発が三郎の額をかすめ、血が流れたことは事実である。
だが命を落としたわけではない。ただ一週間ほど療養に専念するために入院したというだけである。
まあ、そんな騒動に巻き込まれもしたが、一カ月近く経過した今ではその傷も何とか癒え、荒井は予定通り、アルコール依存症患者のための更生施設に入寮し、新しい生活を送りはじめている。
入寮者はみんな重度のアルコール依存症患者たちだ。
彼らとグループセラピーやレクリエーションをして過ごし、リハビリ訓練メニューをこなしながら、お酒からの本格的な脱却を目指している。
この一ヶ月間、楽ではないが何とか頑張っている。
正直苦しくて仕方がない。
寄せては返す波のように、苦しみと悲しみが交互に押し寄せる精神的苦痛は並みの表現ではとても言い尽くせない。
それこそ締切に追われる漫画家の比ではない。
しかし、その苦境も日々繰り返し味わうことによって、どんな人間にも慣れというものが訪れる。そしていかなる苦難の中にもそれなりの光を見い出すようになるから不思議である。
荒井の場合、その光となる存在は一週間に一度のペースで面会に来てくれる木山さんだった。
施設に来てからの毎日は、彼女のおかげで意外なほど充実している。
今ではとてつもなく、大きな心の支えになっている。
海辺の見える別荘のような場所で、時間が経つのも忘れ、荒井は生まれ変わるために何とか精神に鞭を入れ、食いしばっている。
正直に打ち明ければ、アルコールは脱却できたとしても、心のどこかには今でも下村さんのことは断ち切れないだろうと考える邪悪な自分がいる。
いや、生涯忘れることなんてできない気さえしている。
あの日以来、荒井は彼女に裏切られたのだとばかり思っていた、ずっと。
でも事実はそうではなかった。
彼女は荒井とスノーボードに一緒に行くという約束はしたが、スキーに行くという約束はしていない。だからスキーを教えてもらうために田中の誘いに乗ったというだけのことだった。
荒井の完全な早とちり。こぼれ落ちる愛のやり場に困り果て自分を見失う。何とも情けない話だ。
しかし今こうして客観的に話せるようになったのは、それこそリハビリのおかげであり、何より木山さんのおかげだと今は心の底から思っている。
漫画家としての生活は、妙なかたちでまだ残っている。
あの壮絶な銃撃戦を契機に、木村三郎という青年との緩やかな交流がはじまったのだ。
「先生の名前をペンネームにしても、よろしいですか?」
退院後、真っ先に荒井の事務所を訪ねてきた木村三郎はそう言って、スーパーキング紙面で荒井の仮面を被った覆面漫画家としてのポジションを得て、今まさに不動の人気を確立しようとしていた。
「君がそれでいいなら、わたしは構わないけど」
荒井は正直な気持ちを伝えた。
「ええ。ぼくはまったく気にしません。出版社さんからそうしてくれると助かると言われたので、素直に応じようと思っただけです」
じつに欲のない青年だな、とそのときは思ったが、よくよく聞いてみると、木村青年は鼻から自分のオリジナルではないと割り切って連載していることがわかった。
『夢から抜け出せない男リターンズ』は、あくまで荒井正和の完全復活作という読者の期待の上に成り立っている作品であって、彼のオリジナリティは次の作品以降で思う存分、発揮するつもりだというのだ。
「それにマーサにはいろいろと迷惑をかけてしまいましたからね。あのとき中華料理店でチンピラの襲撃事件に遭遇してしまい、危ない目に遭わせてしまった。だからその罪滅ぼしのためにも、ぼくは漫画家にならなきゃいけないんです。もちろん幼い頃からの夢だったので、人並み以上の野心はあります。でも、ぼくの漫画家になる入り口には、まずマーサに対する感謝の気持ちが先にあるんです」
この話を聞いて、なかなか骨のある青年だと、荒井は当初の印象を改めることになった。そしてそんな彼に恋心を抱いたマーサに荒井は改めて驚かされた。
三月からはじまった『夢から抜け出せない男リターンズ』は、連載開始早々、荒井正和の完全復活作という認識を漫画ファンに植えつけた。
幸い読者からの反響は上々のようだ。それを谷口さんから聞いて荒井はホッと胸をなで下ろしている。
長いこと闇に葬られていた物語が巷の話題を席巻しているというのだから、こんなに嬉しいことはない。
谷口さんからしょっちゅう電話がかかってきて、そのたびに異様なほど歓喜に満ち溢れた悲鳴を上げ、連載の好調さを嬉々として訴えかけてくるのだ。
荒井はさっそく掲載がはじまったスーパーキングを木山さんに頼んで買ってきてもらい、作品に目を通した。
谷口さんも指摘するように、マーサが誌面の中で本当に生き生きと、そして美しく描かれているのには驚かされた。
今にも漫画から飛び出してきて読者を誘惑するのではと思うくらい色っぽく妖艶に、それでいて健康的で活発な女性としても描かれている。
ときどき木村三郎本人がマーサを本当の恋人として描いているのではないかと思わせるような描写もあって、ビックリするほど艶っぽい。シーンによっては、読者が嫉むのではないかと心配になるくらい。
それから間もなく、三月上旬のあるうららかな日に、谷口さんからかかってきた電話で、その点がまさに読者のあいだで評判になっていることを知った。
「第二話も上々ですよ。ヒロインのマーサがとっても色っぽいと大好評でしてね。あの描写力は人間の才能の域を超えているというのがもっぱらの意見です。いやぁ、ご紹介いただいた木村三郎という作家さん、いい意味でも悪い意味でも、かつての先生にそっくりで結果的にとても助かってます。ありがとうございます」
荒井は、かつての、というひと言が引っ掛かったが、文句を言うだけの気力はもうなく、単に感謝するだけにとどめた。
「いやいや、お礼を言われるようなことは何も。わたしは何もやっておりません。ぜひその気持ちは木村君とヒロインに言ってやってください。きっと励ましになりますよ」
そう言って荒井は電話を切った。
谷口さんは結局、ネット雑誌を立ち上げることなく、今でも少年社第三編集局週刊少年スーパーキング編集部に在籍している。だがネット雑誌創刊に向けて培った知識や人脈は、少年社が将来新事業を立ち上げる際にきっと活かされることだろう。
木村三郎の人気はとうぶん続く。荒井はそう確信している。
そして次回、もし彼に会う機会ができたら、是非訊いてみたいことがある。
あのときポケットに入っていなかったビタリン錠がもしポケットの中に残っていたら、いったい誰に飲ませるつもりだったのかということである。
まだ見ぬ病床の兄なのかそれともマーサなのか。それとも、どちらでもない第三者なのか…。
荒井は早く聞いてみたくてうずうずしている。
おっと、最期にもうひとつ。
あの、スダジイの金庫のダイヤル開錠番号についてだ。
純一がしたためた手紙には五桁の番号と書いてあった。残念なことに、作者のくせに荒井はその数字を知らない。
でも木村青年はどうもその謎を解き明かしたようである。そうとでも考えなければ、あれほどの大金を佐々木さんへの賄賂として用意することなどできなかったはずだろうから。
気になるのは、どうやって知ることができたのかということ。手がかりとなるようなものはいくつか考えられる。
三郎が立ち読みしていた天体雑誌と、純一の遺書に忘れてはならないと記されていた小笠原の星という言葉。これらが開錠番号を解き明かす鍵となっている気がしてならない。
今回の一連の騒動には、居酒屋店主に支払う賠償金やら下村さんに立て替えてもらった飲み会代、それと渡さんへの協力費や伊藤さんへの取材費用などなど、いろいろ経費がかかっている。
まさか今回の木村青年が稼いだ稿料を充てるわけにもいかないだろうから、荒井としては是非ともその金庫の開錠番号を解き明かしたいのである。
了
以上、今まで読んでいただきありがとうございました。
2025年7月あたりに noteの同アカウントにて別の小説作品を紹介したいと思っていますので、その際はよろしくお願いいたします。また本作読後の感想やアドバイスなどございましたらぜひコメントお願い致します。