5人のために1人を殺すか?に僕はこう答える【私的価値観】
今日は手短にトロッコ問題の話を。1人を見捨てて5人を助けるか。5人を殺してでも1人を助けるか。
トロッコ問題についてはこちらの記事が面白く読めます。(説明丸投げ!)
さて、このトロッコ問題にどう回答するかでその人の価値観がわかるよね、という乱暴な仮説が、本記事のテーマです。(今日は疲れてるのでいつもに増して乱暴な仮説です、御容赦を!)
僕的価値観でいうと、ズルくて欲張りな回答をします。1人のほうを、5人のいる線路に連れてくるのです。そして誰もいない線路をトロッコは通っていく、と。
おや、理想論だね、というツッコミが聞こえてきますね。
何かを得るためには、何かを捨てなければならない
という、進撃の巨人的なアルミン的なセリフも聞こえてきそうです。5人を救うためには、1人を捨てなければならない、と。
こういう理想論をベテランの先輩方に言うと、理想論を述べてるだけで、実際に現実はそうはいかないんだよ。と諭されることが多いです。
たしかにそんなんどうやってするの?という難問ですし、そんなチートな回答ができないからこその倫理的難問として有名になっているわけなので、理想論じみて聞こえるのもわかりつつ、
でも。
戦後まともな近代的な日本に生まれてから70年そこらしか経ってないからまだこの社会にはまだまだ可能性があるし、どんなベテランさんでも、長いと言ったって30〜70年くらいの人生しか生きてないわけなので、今までに「愛のある理想論的にな答え」を現実に見つけられなかったからって諦めるのは早すぎます。残りの人生で見つけられるかもしれない。諦めないでほしい。
どうしても、年齢を重ねて、博学になって、経験を蓄積すればするほどに、理想論的に本質を語ることを冷笑して、「理想語っても現実(その人の短い人生における範囲の現実)はこうなんだよ」と語りたがる傾向にある気がしていて。
ここから人生100年時代です。大概の大人が少なくともあと10年くらいは生きるでしょう。あと10年もあれば結構色んなことができますよね。まだまだ多くを生きるというのに、何かを達観してわかった気になってしまうのはもったいなくないでしょうか?人生とはこういうもの、と諦めるのは死に際の病床でも遅くないのではないでしょうか?
そしてこういう、人生とは!という自論でマウントをとる人は、まだまだ中年の40,50代のオジさん達が多いので驚きます。40歳なんて、日本では人口比率的には若者ですよ。
トロッコで誰かが轢かれるというのなら、誰も轢かれない方法を考えることに人生を使いたいし、明日地球が滅びるというなら、最後の1秒まで、どうにか滅ぶのを回避する手立てはないか探し続けたい。
何歳になっても、何一つ諦めたくはない。という青臭い理想論的なこだわりが、僕の価値観の1つだなぁと思っています。世界最高級の哲学者達が解けなかったトロッコ問題すら、僕はまだ諦めていないのです。子どもじみててバカだなぁと自覚しつつ、そのバカさは捨てたくないと思い続けてます。
みなさんは、トロッコ問題にどう答えますか? 答えのない問いにどう答えるかに、その人の価値観が垣間見える気がします。