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誕生

「今日はその花にするんですね。」
土の香りがやけに鼻につく雨上がりの7時35分。普段寡黙な店員が珍しく話しかけてきた。

「ええ、まあ。たまには違う花もいいかなと。」
「ふーん。まあいいですけど。」
バツが悪そうに答え、いそいそと代金を払い店を出る。何も悪いことをしていないはずなのに心にもやがかかるのはなぜだろう。
店員の顔を思い出そうとすると何故か鏡の前の自分のような錯覚を覚えた。

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家に帰り花瓶を覗く。花瓶にはいつものように同じ花がそこで暮らしていた。
もしも花に意志があり枯れたいと願ったならば僕はその花を枯らす事ができるだろうか?そんな突拍子のない事を考えてしまい、いつもと違う花にしただなんて店員に言えるはずもない。
枯れる苦しみばかり心配する僕は花が心配なんじゃない。自分が心配なんだ。

そんな思考を飛ばすかのようにぶんぶんと頭をふり、新しい花を一輪花瓶に咲した。皮肉な事にその花の美しさは僕をまた傷つけ、やはり自身の咲かしたい花を再認識した。

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一夜明け、また花瓶を見る。不思議と昨日咲したはずの花は虚になっていき、どこかそこに心の安寧を覚える僕がいた。
ただここに僕は生きるだけ。嘆いても昨日はやってこないし明日はやってくる。
そんな事を言いながら気持ちに抗えない僕は今日もまた水を汲む。枯れる未来を恐れるならば枯れない今を少しずつ育んで生きよう。

どこか直視できなかった花に目をやる。紺色に染まった花弁が窓から溢れる陽を照り返していた。


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