「世界人権デー」を明日に控えても、ぼくらはガザでの蛮行を傍観するしかないのか
このところ、僕のなかで響き続けている曲がある。
"Open the Window"
Rhymester(ライムスター)の楽曲。
ウクライナ侵攻を機に作られたという。
先日、大阪であったライブに、初めて行った。
そしてこの曲の中の歌詞を、めいいっぱいの大声で叫んだ。
「Stop the War! No more War!」
「Stop the War! No more War!」
と。
そして気づいた、
自分はほんとうに望んでいるんだ、
戦争がなくなることを。
国家による暴力がなくなることを、と。
いままで押し込めていた気持ちが溢れた。
涙が流れた。
…人権のこと、平和のこと、戦争のこと、
決して明るい話題ではない
なにアオいこと言ってんのと思われるかもしれない
だから誰にでもできる話じゃない
話したところで何かが変わるわけじゃない(と思う)
そしてぼくらは黙るしかない
…だけどそうやってぼくらは
自分の想いも力も
押し殺しているんじゃないか
そのことを
はっきりと自覚した。
一昨日の晩は京都大学を訪ねた。
水俣を取り続けてきた写真家の芥川仁さん(→写真)と
藤原辰史さん(→文章)のトークに。
藤原さんは語った。
水俣病事件は
決して何かある地域のある特殊な事件ではなく
現代世界史の大きな流れの中に位置づくものである。
その流れの中に私たちは共にいるのだ、という趣旨のことを。
トークの後の質疑のさいごに
東京から来たという同世代の方が問いかけた。
最近、自分が生まれ育った町の地下水が米軍のPFASで汚染されていたことがわかり、衝撃を受けた。
でも、そのことを同じ都内の人に話しても、他地区の人からは他人事。
どうすれば自分も同じ当事者だという思いを共有できるだろう、と。
…この問いは、僕もずっと感じてきたことだ。
いま、僕が向き合っている高時川の濁水や源流域の乱開発についても、関心を共にしてくれる人はまだ限られている。
水俣のことも、然り。
不投稿の問題も、たまたま最近、某市長の発言で話題になったが、それまでは当事者以外にはあまり関心を持たれないことだった。
関心を持たれないことが根本解決を遅らせる。
水俣病事件も、多くの人々の関心が寄せず
原因企業も国家も、対策を遅らせたことを許した結果
被害を甚大なものにしたのだ。
その構図は
いまあらゆるところで起きている深刻な問題について
言えるはずだ。
質問した彼は続けて言った。
「営み」ということでしょうか。
と。
あぁ、そうだなと思った。
ぼくらが必要としているのは、暮らしであり、営み。
日々、家族や友人たちと、
起きて、食べて、出して、働いて、遊んで、流して、休んで…
その日々を重ねていくことが、ぼくらの望んでいること。
それらが
暴力的に
一方的に
破壊されていく痛みを
侵されていく苦しみを
ぼくらはみなどこかで知っているはずなんだ。
暴力や抑圧は
ぼくらの身の周りにいつにだってある。
ガザでいま起きていることと
今自分たちが日々のなかで感じている抑圧とは
地続きなんだ。
今ぼくらを覆っている
「声をあげるなんて、幼稚だし、迷惑ですよ」
「言われたこと、決められたことだけ、大人しくしてればいいんですよ」
という空気の抑圧と。
先日、ガザから情報発信をしている若い動画クリエイターを知った。
彼女は今のガザの惨状だけでなく
この蛮行の前にはあった美しい街や農村の風景と人々の営みを発信している。
たとえば下記の二つ
(最初に数秒間、物々しい音と共に「この後に見るものすべてをイスラエル軍が破壊した」というアピールの映像が出るが、それが終われば穏やかな映像になる)
そこには
ぼくらと同じように
日々の営みを紡ぐ人々がいて
暮らしの場がある
…いや、あった、のだ。
想像してみる
今
身の周りにある暮らしが突然
爆弾や兵器によって
破壊されることを
この家が吹き飛び埃にまみれ
家族が命を落とし
血を流し
自分は着の身着のままで
砲火におびえながら
逃げ惑い
水もなく
食べものもなく
行くあてもなく
さまようことを
そして
自分には指示や命令が
一方的な浴びせられ
自分の訴えや叫びは
聴き届けられないことを
想像してみる
その苦しみ
悲しみ
絶望を
その経験はすでに
ぼくのじいちゃんたちもばあちゃんたちも
嫌というほど味わったことではなかったか?
ほんの80年前頃
あの戦争での
本土空襲で
原爆投下で
それがいま
起きているのに
黙っているなんて
ぼくには無理だ
明日12月10日は世界人権デーなのだそうだ。
「人権」ってすごく難しいことだと思ってきたけれど
誰もが安心して
臆することなく
自由に
日々の暮らしを営みつづけられること
そして
必要なときは
自分の想いを
聞き届けてもらい
手をさしのべてもらえること
シンプルにはそういうことじゃないだろうか。
人権を守るということは
その営みを守り続けられること
守り合えることなのではないだろうか
いじめと同じで
傍観をすることは
加担すること
人権を守ることから
降りること
そしてそれは
いずれ自分たちの人権が侵されることも
受け入れるということ
それはぼくは嫌なのだ
もちろんこの侵攻が
明日には止まらないかもしれない
でも
願わなければ止まらない
動かなくては止まらない
ぼくらは微力だが
無力ではない
まずは想いを声にしよう
小さくてもいい
つぶやきでもいい
下手くそでも
かっこ悪くてもいい
まずは誰か一人にでいい
一人静かに祈ることからでいい
そのためにも声を聞こう
現地の声を
周囲の人々の声を
聞き届けること
それも一つの
人権を守る行為なのだと思う
"Open your eyes. Open your heart."
そして
"Listen to there Voices"
追伸.同じ滋賀からガザの女性たちの応援を続けてこられた北村記世実さんも現地のリアルな声をお届けくださっていますので紹介します。
あと、アルジャジーラのInstagramも(かなり凄惨な映像もありますので閲覧注意ですが、自分が当事者ならこの状況から逃げられないのだと思うと、目をそらすことはできないと感じます)
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