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稲刈りしながら考えた、「手で 共に」することの意味。

ザク、ザク、ザク、ザク。
パタン。

ザク、ザク、ザク、ザク。
パタン。

ザク、ザク、ザク、ザク。
パタン。

稲を刈る。
左手で1株目をつかみ、右手の鎌で刈る。ザク。
刈った1株目を持ったまま、同じように2株目を刈る。ザク。
3株、4株目も、同じように。ザク、ザク。

4株ほど刈って左手がいっぱいになったら、まとめて、地面に置く。パタン

グッ。
コロン。
ギュッ。
クルン。
グイグイグイ。
パタン。

グッ。
コロン。
ギュッ。
クルン。
グイグイグイ。
パタン。

グッ。
コロン。
ギュッ。
クルン。
グイグイグイ。
パタン。

次に、地面においた稲束を藁でくくっていく。

数本の藁を左右に開いて持ち
稲束の根本から少し上を押さえつける。グッ。

抑えたまま束をひっくり返す。コロン。

藁を交差させて束を締める。ギュッ。
手首を返して稲束を一回転させる。クルン。

藁の先を括ったところに押し込む。グイグイグイ。
藁束が括れたら、また地面に置く。パタン。

お彼岸前のお天気のいい朝、僕は近所の方といっしょに、手刈りで稲刈りをした。僕にとっては久しぶりの経験。

集まっていたのは20名ほど。だいたいが70-90代で、男女は半々くらい。

「村上くん、稲刈りしたことあるの?」
「はい、子どもの頃は手伝ってました。その後も少しだけ自分でやってたときもあって」

言葉を交わして手を動かしながら、ぼくの脳裏には思い出の風景が蘇る。

子どもの頃、家族と親戚で一緒に稲を刈り、稲架(はさ)をかけたときの風景、匂い、感触、感情。いまは亡き方々のことも、手をとって刈り方を教えてくれた母とのやりとりも。

20代の頃、自分で田んぼをつくってみたときの、ドキドキとワクワク。手伝ってくれた友人たちのこと。

そんな思い出を呼び覚ましてくれるのは、あのときと同じ動作や、音や、リズム。さらにいは匂い、感触。そして、作業を共にする人々の間で交わされる、カラリと明るい会話だ。

「わしゃ、あつうてもうかなんわ。倒れたら運んでおくれ」と、90歳を超えた男性が言う。

思わず「そんなのじゃまくさいわー。倒れんように休んでやー」などと失礼な言葉が僕の口からついで出る。

「じゃまくさいってなんや!」と、その男性が笑い、みんなも笑う。

そんな風に笑いながら言い合える空気。

この空気は、僕の幼少期や若かりし頃と何も変わっていなかったし、余呉と日野という地域を超えて共通していた。

 * * *

あぁ、ぼくが、歩くことや、自転車に乗ること、手仕事をすることが好きなのは、この空気が好きだからかな、と思う。

動作や、音や、リズムや、匂いや、感触や、疲労感を共にしている者同士の中で生まれる、なんとも言えない連帯感。

最初にあるのは言葉ではない。動作だ。

互いの動作を、目や耳で感知しながら、自分がどう動くかを調整し合う。おのずと、役割分担が生まれていって、みんなが有機的に連携し合う。個人個人のリズムのズレも調和して、一つの音楽を奏でるようだ。もしかしたらジャズ・ミュージシャンの即興演奏とかって、こういう感じなのかな。

 * * *

ふと、一緒に作業をしていた方が、にこやかにおっしゃった「手刈りもえぇもんや。こうやって話もできるしなぁ」と。

ほんとにそうですね、と僕も返した。

農作業が機械化されたことで、一人で作業できるようにもなり、時間的な効率は上がった。

けど、農作業を「手で 共に」する機会が失われたことで、人と人とが気のおけない関係を醸成する機会は、減ったのだと思う。

すべてを手に戻そうなどと言い出すつもりはない。だけれど、仲間でありたい人とは、せめて年に1回でも、手作業を共にする機会を持てたほうがいいのだろうと思う。

 * * *

ところで、この稲刈りの主たる目的は、米をとることではなく、藁をとることだった。祇園祭の鉾に使うための藁を。

2時間ほど作業し、すぐにコンバインで脱穀したあと、京都から来られた大工方(鉾を管理されている方々)が、藁を取りに来られた(なぜ祇園祭の鉾の藁を?というのを語ると長くなるので、もし機会があればまた改めて)。

そういえば、祭りもまた「手で 共に」することだ。

稲刈りも、祭りも、手間がかかるし「じゃまくさい」。

だけれど、じゃまくさい手作業を共にすることで、僕らは、人と人としてののつながりを育むことができるのかもしれない。

「じゃまくさい」ことの価値を、もう少し、見直してみてもいいかもしれない。さすがに高齢男性に倒れられるのは、やっぱり勘弁してほしいけれど。

さて、来年の祇園祭は見に行こうかな。自分が刈った藁が使われているのを目にするのは、素直にうれしいだろうな。

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