目次&はじめにー流域自治への道@高時川 #000
目次
#000 はじめに
#001 痛みをどう分かち合うか?ー霞堤(かすみてい)をめぐってー(上)
(以下、順次掲載予定)
大阪からの電話
2022年8月5日、11時半ごろ。僕は、日野町の自宅近くにいた。ポケットのスマホが鳴った。発信主は大阪の取引先さんだった。「余呉のほうの雨がかなりひどいみたいやから、大丈夫かと思って」。
日野の空は薄曇り。蒸し暑くはあったが、雨は降っていなかった。お礼を言って電話を切り、気象レーダーを見る。たしかに、郷里の余呉から福井にかけて、赤や紫に染まっている。NHKのサイトでも、余呉や木之本で避難指示が出ていると報じていた。
これだけの雨が降ると高時川下流の氾濫も心配だ。滋賀県の防災システムで河川の水位を調べると、中流の河合でも、下流の難波橋でも氾濫危険水位をゆうに超えていた!…
高時川との深い縁
NHKの報道によれば、今回、高時川に降った大雨の被害は「床上浸水が12棟、床下浸水が20棟」「7ヘクタールあまりの農地に土砂が流れ込むなどの被害」とのことだ。また、滋賀県の発表でも触れられているように、送水管の破断など、ライフラインへの被害も生じた。
こうした水害のニュースは、毎年必ず生じていて、見慣れてきたくらいだ。しかし、これまでどこか、他人事であった。この数字だけを見れば「ちょっとした水害」くらいに思っていただろう。
しかし今回は決定的に違った。
高時川は、僕にとって特別な川だからだ。
第一に、高時川、特に上流部の丹生川は、僕が小さな頃から慣れ親しんだ川だ。泳ぎが苦手だった自分にとって、丹生川の深い淵はとても怖くて近寄れなかったこと。上流の丹生渓谷のブナ・ミズナラ林の鮮やかな景色は、ずっと心のなかに焼き付いていること。また、多くの知人が高時川沿いに暮らしていて、今回も、住宅や農地に被害を受けている。
第二に、僕は20代の頃に、この川の整備、特に治水について、国土交通省が設置した委員会(淀川水系流域委員会)の委員として、有識者や技術者の方々、そして地元の方々と議論を重ねたからだ。
特に、高時川に計画があった丹生ダム(にゅうダム)の建設計画と高時川の治水は、大きな議論のテーマだった。何度も現地を歩き、地域の方々のお話に耳を傾け、技術的な資料も読み込み、最適解を探った。その後、2016年に建設計画は中止になったが、災害リスクが下がったわけではなく、その後も常に関心を持ち続けてきた。
その二重の意味で、僕にとって、今回の水害はどうしても「他人事」ではいられなかったのだ。
何が起きているのかを自分の目で耳で確かめたい。自分が見過ごしていたことがあるなら、認識を改めたい。そして、この川の未来、この地域の未来に向けて、自分に今できることを、やり始めたい。
そんな思いが、自分の中から湧き上がってきた。何かに突き動かされるように、僕はあの日から、折を見て現地に足を運び続けてきた。
「流域自治」の実現へ
そうして見聞きしたこと、気づいたことを、このマガジンで綴っていこうと思う。
なぜなら、僕には、実現したいことがあるからだ。
それは「流域自治」だ。
川は、その川に関わるすべての人々にとっての「共有物」、「コモンズ」、つまり「みんなのもの」だ。
僕が思い描く流域自治は、上流の人も下流の人も、川は「みんなのもの」との認識を共にし、恵みも、痛みも、分かち合い、力を寄せ合うこと。また、今を生きる人間だけのものではなく、ほかの生き物のこと、未来世代も含めた「みんな」を想い、長期的な視野で、深い智慧で、協力しあい川と向き合うことだ。
中国には「飲水思源」という言葉があるという。水を飲むとき、その源流に思いをいたせという意味のようだ。これはまた、先人の恩に思いを馳せよということでもあるらしい。
私たちは、自分が嫌な思いをしたときには、誰かのせいにしてみたり、原因をなにか一つに特定して、その退治に躍起になってしまいがちだ。
しかし、多くの場合、問題の原因は一つではないし、自分自身もその原因だったりする。いくつものジレンマを抱えて、痛み分けをするしかない場合もある。
自治とは、そういうものだろう。関係する皆のことを互いに理解し合った上で、自分自身の認識や行動も変化させながら、全体の最適解の実現に向けて協力し合うことだろう。誰かだけが泣くのではなく、誰かだけが笑うのではなく、関係する皆が、笑顔も涙も、共にすることだと思う。
一朝一夕にできることではない、ということはわかっている。
でも、誰が、今、始めなければ、成すことはできない。
これから僕が綴る記事をお読みいただき、少しでも、僕の経験やビジョンを分かち合っていただくことができれば、幸いである。
そして、足元を調べ直すことでもいいし、家族との話題にしていただくことでもいい。ご自身のお住まいの地域で、「流域自治」の実現に向けた取り組みを、何らかの形で始めていただくことができるなら、この上ない喜びである。