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痛みをどう分かち合うか?ー霞堤(かすみてい)をめぐってー(上) 流域自治への道@高時川 #001
水はただ、自然の摂理にしたがって
僕が初めて、水害の被災地を訪れたのは2004年。福井豪雨のときだった。僕は当時、国土交通省の委員会(淀川水系流域委員会)の委員を務めていた。高時川上流の丹生ダム(にゅうダム)の建設計画をはじめ、琵琶湖の水位調節のあり方、住民と川との関係のあり方など、淀川流域の河川整備に関する幅広い議論をしていた。しかし、水害の現場には立ったことがなかった。だから一度、現場を訪れようと思ったのだ。
水害が起きて数日後、ボランティアに応募して、山間部の美山町を訪れた。役場まで自家用車で行き、指示された浸水家屋に向かい、泥出しを手伝った。
その作業や、被害状況もさることながら、その行き帰りの道中で目にした光景が、今も、脳裏にしっかり焼き付いている。
それは、蛇行する川を高いところから見下ろしたときのことだ。
蛇行する川の内側にあった田んぼが、大量の土砂に埋まっていた。
それを目にした瞬間「なんてひどい!」と感じたが、同時に「なんと美しい!」とも感じた。たしかに、田んぼを埋めた土砂は、規則的で美しい流線型の模様を描いていたのだ。
その相反するような感情に向き合い、僕は理解した。「水はただ、自然の摂理にしたがって流れた」ということを。水には悪意も善意もない。風呂場を流れるとき、砂場を流れるときと同じように、ただ、自然の摂理に沿って流れただけなのだと。
しかしそこには、人の暮らしがある。家があり、農地があり、道路や橋がある。だから「被害」が生じ、「水害」になるのだ、と。
「霞堤」(かすみてい)のこと
今回の水害で一躍、有名になった言葉がある。それは「霞堤」だ。
初期の報道では、航空映像や航空写真とともに「高時川が氾濫」と報じられた。その後、有識者が「これは見事な洪水制御の写真」とツイートするなどして、話題となった。この写真は、後述する高月町馬上(まけ)の霞堤だ。
これは見事な洪水制御の写真
— Kent AOKI (@kentaoki) August 5, 2022
単に氾濫しているのではなく,霞堤によって制御されている氾濫.浸水しているのは当初から氾濫が想定されいる遊水地となる場所.さらに,堤防として機能させることを想定して作られている道路もしっかりと集落への浸水を防いでいる. https://t.co/KV0OSh8Rf9
霞堤については、下記の総合地球環境学研究所のリーフレットなどがわかりやすいが、僕なりに解説をしておく。
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「堤防」と聴くと、どんなものが思い浮かぶだろうか?
おそらく、川の流れに沿ってつくられた土やコンクリートの構造物で、それは上流から下流までつながっているものではないだろうか。
僕もそうだった。
ところが、少し学ぶと、つながった堤防(連続堤)が一般的になったのは、江戸時代後期、あるいは明治時代頃からだということがわかってきた。
それまでの堤防は、ところどころで途切れて、さらに、二重、三重に連なっていたということが知られている。
たとえば大熊孝氏の考察で描かれている下記の手取川の堤防の図がとてもわかりやすい。
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下記の国交省富山河川国道事務所のパワーポイントも、その成立過程が解説されていて、わかりやすい。
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当時の人々は、水を川の中に閉じ込める、という発想ではなく、川がある程度動くことを許容しながら、暴れすぎない程度に制する、いなす、ことで被害を最小化するいう発想で堤をつくっていたようだ。
こうした形状で、雨が想定以上に降ったときには、霞堤や二重堤の内側(農地)までは水が浸かり、川幅が広がるようになるけれど、その外側(人が住んでいる地域)までは水が浸かりにくい、という仕組みになっていた。
しかし、近代以降は、堤防を上流から下流までつなぎ、水を川の中に閉じ込める治水が行われるようになった。加えて、治水目的のダムを建設することで、川に流れる水の量を、一定の範囲まで制御できるようにもなった。
このことで農地や宅地が広がり生産性は上がった。洪水の頻度も減った。しかし一方で、いざ洪水が起きた際にはどこで堤防が壊れるかわからない、また堤防が壊れたら甚大な被害が起きる、というリスクが高まっていること、さらには生き物のすみかと通り道が壊されてきたことが、前述の淀川水系流域委員会でも指摘されていた。
一方、霞堤の場合、溢れる場所があらかじめ定められている。また、溢れた下流側から逆流するように入ってくる。だから、上流側から流れ込む場合よりも水の流れはゆるやかだ。泥は入るが、砂や砂利は入りにくい。また、川の水が引けば、溢れた水は川へと戻っていく。
稲は一時的に水に浸かっても枯れることはないので、一時的に浸かっても大丈夫。
…というのが、これまで机上で学んでいたことだった。
実際に「霞堤」を訪れて
今回、高時川では、二箇所の霞堤が機能した。一つは、上記のツイッターに写っていた、高月町馬上(まけ)地先の霞堤。もう一つは、木之本町古橋(ふるはし)地先の霞堤だ。
上記の馬上の霞堤の写真では、左上から右下に川が流れている。右下のあたりが霞堤で、水が逆流して田んぼに入っている。
下記の古橋では、川は左か右上へ流れている。右下の、山のそばで堤防が低くなっているところが霞堤だ。
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いずれも、洪水のピークのときに、一時的に水を引き受け、そしてピークが過ぎてから、水を川に戻した。たしかにそれは「見事な氾濫制御」と言えるかもしれない。
しかし前述の通り、そのいずれも、僕が知る人が耕作をしていて、被害にあった「農地」だった。
水が溢れた現場に立ち、実際に耕作をしてきた人に出会って初めて、わかったことがあった。
(次回へつづく)
ーーー(資料編)霞堤と流域治水ーーー
霞堤の活用や、森林の保全なども含め「流域全体で受け止める」発想での治水が、「流域治水」だ。
僕が2001年から2005年まで委員を務めた淀川水系流域委員会では、ダムや連続堤だけに頼らない治水が検討された。当時、共に委員を務めていたのが嘉田由紀子さん(当時は滋賀県立琵琶湖博物館学芸員)だ。その後に2006年に知事になり、全国に先駆けて、流域治水政策を進めてきた。
滋賀県の流域治水政策の経緯や内容については、県庁の資料や、当時滋賀県庁職員として流域治水政策の立案や地先の安全度マップ(ハザードマップ)の政策に携わられた瀧健太郎さん(滋賀県立大学環境科学部准教授)のお話やプレゼンに詳しいので、参考資料として、ここに紹介する。
川に水を閉じ込める近代治水から、流域治水への抜本的な転換には、土木技術、社会的な制度、そして私たち一人ひとりの自然へのまなざし、暮らしの姿勢において、根本からの変革が必要である。
草の根での取り組み、研究機関での研究、土木技術の開発、地域や学校などでの地域学習の充実など、継続的な取り組みと、それを支える仕組みづくりが必要だと思う。
国(国土交通省)も流域治水の必要性を認識するに至り、2021年11月には「流域治水関連法」(特定都市河川浸水被害対策法等の一部を改正する法律)が施行された。
令和5年度の概算要求では「流域治水の本格的実践」に7335億円が計上されている。
流域治水は、流域のあらゆる地域、あらゆるセクターの、参画なしには実現しない。治水は国や県がやること、専門家がやること、という先入観を手放せば、「自分にできること」「自分だからこそできること」がきっと見えてくるはずだ。
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