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ただ生きるだけじゃなく

東京都知事選にも出馬したAIエンジニア・SF作家である安野貴博氏の『松岡まどか、起業します』。前回取り上げた『成瀬は天下を取りにいく』同様、面白さに引き込まれて一気に読んでしまう小説だった。ここでは『成瀬』との比較から話を始めたい。

『成瀬』と『松岡』の共通点

この二つの作品には幾つかの共通点があるが、まず注目したいのがそのタイトルである。どちらも、[人物の固有名]+[その人物の行動]という形をとっている。「成瀬」や「松岡まどか」と、あえて人物の固有名を掲げることで、その個人と周囲の集団との対照性が暗示される。成瀬の場合には学校のクラス、松岡の場合には内定を取り消された大企業との対照性だ。

前回、『成瀬』の作品中に描かれる集団の暗い側面としての「いじめ」と、その集団の力に屈しない成瀬について書いた。本作『松岡』の中でも、ある集団の暗い側面と、それに屈しない松岡が描かれている。

松岡が内定を得たのは、リクディード社という従業員数五万人の大企業。その事業部長である郷原は、社内の派閥作りに熱心な人物である。ある日、役員会から緊急なコストカットが言い渡される。

(郷原自身の降格を防ぐためには)役員会の打ち出したコストダウンの目標は、必ず実現しなくてはならない。
しかし同時に派閥も守らなければならなかった。派閥こそ自分の最大の武器であり、求心力を失えば出世の目はやはり消えてしまう。
三十年間、出世を目指して会社に奉公を続けてきた郷原にとって、負ける訳にはいかない戦いだった。

p.30

必要なコストカットのためには社員の解雇が不可欠。しかし郷原は、派閥の仲間の解雇を避けるため、新卒の内定者に辞退を強いることでコストカットを行う。内定の辞退を強いられた松岡は思う。

大学四年の三月の今、内定が取り消される事がいかに致命的なことなのかは、相手もわかっているはずだった。
大企業にとって、自分はただの歯車でしかないと悟る。使えなければ無理やり取り替えればいいと思われている。腹の底から怒りが湧いてくる。

p.8

ここで重要なのは、内定の取り消しという選択が、企業にとって良いという合理的な判断の結果ではなく、事業部長である郷原の保身のために為されたという点だ。「派閥を守る」というと聞こえはいいが、その根っこには自身の保身があり、そのつけは派閥の外、会社の外の人にまわされる。

こうした暗い側面を持つそれぞれの集団に対して、成瀬は「天下を取りにいく」ことで、松岡は「起業」をすることによって対抗するのである。

お金は重要

では次に、この二つの作品の相違点を見てみよう。重要な違いの一つは、成瀬は学生なのに対して松岡は社会人ということだ。たとえ成瀬が「天下を取りにいく」としても、まだ学生であり親元暮らし、経済的に自立していない。一方、松岡は大学を卒業し、(一応は)経済的に自立した立場である。この違いは大きい。成瀬は、お金を稼げなかったとしても、食事や寝る場所に困ることはないだろうが、松岡はそうではない。

本作は、全体のタッチがコミカルに明るく描かれているため、あまり悲壮感を感じさせないのだが、松岡、そして共に起業をする三戸部も、お金に余裕があったとは言い難い環境で育っている。

仕事で大きな負荷がかかった兄について語る、松岡の言葉にその一端が伺える。

兄はどんどん憔悴していきました。転職するか、せめて休んだ方がいいって私は何度も言いました。でも、兄は無理だとわかっていながらも、働き続けることを選びました。両親の介護費用と妹の私の学費を稼ぎ続けるためには、少しの余裕もなかったんです。

p.214

その後「壊れてしま」った松岡の兄は「三年が経った今もまだ、家で療養中」である。一方、三戸部による母の回想。

起業家だった母は、私が十歳のときに死を選んだ。事業の状況が悪くなるにつれ、母はどんどん憔悴していった。死ぬ直前の母は、起業する前の明るさをすっかり失い、まるで別人になっていた。見ていられなかった。

p.331

ここでも、おそらくは経済的にもかなり追い込まれたであろう状況が察せられる。こうした背景を持つ松岡と三戸部が、努力を重ねて大企業であるリクディード社に入り、おそらくは比較的高い給料をもらえるポジションについたのは、過去を踏まえての合理的な選択の結果とも言えるだろう。

お金より重要なもの

こうした背景を持つ松岡と三戸部だが、彼らにとって生きる上でお金が最も重要なのかというと、そうではない。この作品の中には「世界に君の価値を残せ」という言葉が何度も出てくるが、元々は三戸部が起業家であった母から聞いた言葉である。

夜遅くに帰ってきて、いつも疲れ切っている母に、どうして起業なんかしたのかと聞いたことがあった。(中略)
「さあ、なんでだろうねえ」と適当に答えた後、急に真剣な顔つきに変わってこう言った。
「ただ生きるだけじゃ駄目なんだ、私は」
きょとんとする私に、母は言葉を続けた。
「私は世界に何かの価値を残したいんだ」

p.332

「ただ生きるだけ」でいいなら、お金だけあればいいのかもしれない。しかし、それでは「駄目なんだ、私は」と語る三戸部の母。それが正しいとか美しいというのではなく、私にとっては駄目なんだという言い方に、本心からの説得力を感じる。三戸部の母の言葉は三戸部に伝わり、三戸部から松岡へ、そして松岡から新しい会社の社員達へと伝えられていく。

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