輪廻転生・カルマと最先端科学理論
前回のコラムでは、イアン・スティーブンソンの生まれ変わりについての研究結果を紹介した。輪廻転生とカルマ(業)は、仏教、ヒンドゥー教などの東洋の宗教に共通する考え方である。輪廻転生とカルマは、辞書では概ね以下のように定義されている。
・輪廻転生
人が生まれ変わり、死に変わりし続けること。
・カルマ(業)
前世の善悪の行為によって現世で受ける報い。
それでは、輪廻転生とカルマはどのような形で実現されるのであろうか。今回は、大阪大学工学部工作センター長であった政木 和三(1916年 - 2002年)の著書から、政木 和三の思考・体験を紹介すると共に、宗教と最先端科学の整合性を考えてみたい。
日本一の発明家 政木 和三の生涯
政木 和三は生涯で3000件以上という、膨大な数の発明をした。一週間に平均して3つの発明をしていたというが、常人には想像できないスピードでの発明のペースであった。発明したものは、電気炊飯器、自動ドア、CTスキャン、聴覚測定器、バイオリズム計、熱線風速計、魚群探知機、超音波金属歪形探知機など多岐にわたり、私達の日常生活に欠かせないものも含まれている。これほどの件数の発明品を生み出した方法について、政木は著書の中で次のように述べている。
『私の発明は、10秒間以内に設計図がインスピレーションの形で発生して、あとは試作するだけで完成する』
まさに天才であり、日本一の発明家という称号がふさわしい人物である。そのような政木の偉大なる業績を考えれば、日本国民の全員が知っているべき人物であるが、政木を知らない日本人が多い。
これだけの発明を行ったのであれば、政木にとっては巨万の富を得ることも容易であったのだが、驚くべきことに、政木は特許庁に認可された特許のほぼ全ての権利を放棄し、特許内容を無償で公開した。その権利放棄された発明内容を、家電メーカーが利用して多くの製品が販売された。政木は無償で戦後の日本の産業発展に貢献したのである。大阪大学工学部を定年退官したすぐ後に、日本の大手家電メーカー5社のトップがそろって、政木のもとにお礼の挨拶に来たそうである。以下は政木の著書から引用する。
私が昭和57年に阪大を定年で退職したすぐ後、大手家電メーカー5社のトップの方々が揃い、これまでのお礼だといって岡山の研究所に私を訪ねてきた。
「先生、長年ありがとうございました。私たちは、これまで先生の発明品を無償で製品化してきました。実は、先生が特許出願された段階で、私たちの会社はその発明品を製品化する準備を始めていたのです。というのは、特許が決定すると、先生は全部それを無効処分になさいます。それがわかっておりましたので・・・・・・」
何が特許出願されたかは、特許庁へ行けば一般に閲覧できるようになっている。私が無効処分にすることを知っていた電機メーカーは、私が何を特許出願したかを特許庁で見てすぐ商品化の準備に入り、無効処分にした日をその商品の発売日にしていたのである。 訪ねてきた中の一人が言った。
「先生が無効処分になさらず、あれを全部自分のものになさっていたら、
4000億から5000億円の特許料が先生に入ったんですよ」
「そんなお金なんかいりません。生活できるだけのお金があればいいのです」
私は即座に答えた。
「それに私は瞬間に発明できます。瞬間にできるものでお金はいただけませんよ」
人間性を向上させるのが生きる目的という信念を持っていた政木らしいエピソードである。
輪廻転生と報い
政木は大阪大学のセンター長を務めていた科学者であるが、超常現象・超能力と呼ばれる事例の研究にも熱心であり、自らが数々の超常的な経験をした。そして、輪廻転生と因果応報が存在すると確信していた。
政木は昭和59年に発生した誘拐殺人事件で、広島県福山市の市議の息子が殺害された1カ月前に、その議員の前世が見えて、本人に対して予知と警告をしていたという。以下は政木の著書から引用するが、福山市議員のMさんの事件について以下のように記載されている。
『Mさんが、お供を4、5人連れ、表敬訪問と称して私の家を訪ねてきた。 そのとき、話をしているうちに、頭の中にフワーッとMさんの前世が浮かんできたので、私はそれについて率直にMさんに申し上げた。
「あなたは350年前に7人もの人を殺しています。それが因果で、あなたの家の人は全部死に絶えますよ』
『だが、Mさんは荒者無稽な話と受け取ったのか、私のいうことをあまり本気には聞いていなかったようだ。
Mさんと一緒に訪ねてきていたうちの一人が、新聞を持って再び私のところへ駆けつけてきたのは、その一か月後である。
「先生、Mさんの一人息子が誘拐され、昨日、残念なことに死体で見つかりました。新聞にも出ています。奥さんはショックで入院してしまいました。』
『前世で残虐な行為をしたり悪徳をはたらいた人は、現世でその償いをしなければならない。そうしないと、必ず前世の報いをうけることになる。因果応報はどこまでも続くことになろう。それを断ち切るには、きちんと償いをし、同時に自分の人間性を高めていくように努めなければならない。』
世界の宗教の死生観
輪廻転生とカルマ(業)は、仏教、ヒンドゥー教などの東洋の宗教に共通する考え方であるが、西洋の宗教にも死後の世界という概念は存在する。
イスラム教の教義では、一人一人の人間の善行と悪行を記録する「行動の帳簿」があり、死後、最後の審判の時に行動の帳簿を示されることになっている。
キリスト教でも、人間の行動を記録する書物が存在し、死後、自分の行動に応じて裁かれるとされている。聖書には以下のように記されている。
私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、 これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。
最先端科学と宗教の関係性
ここで最先端の宇宙物理学・量子力学と宗教との整合性を考えてみたい。以前のコラム等で紹介したように、量子力学の実験や数学によって、物質など実際には存在しておらず、観測という行為によって物理的現実が確定することが明らかになっている。これは、東洋の伝統的な宗教の教義で、この世は意識と結びついた一種の幻想であるという考え方と整合性がある。
また、以前のコラムで紹介したホーキングによるブラックホールの計算とホログラフィック理論は、二次元の平面上に、三次元の現象が記述・記録されているという理論であるが、前述のイスラム教・キリスト教の行動の帳簿という考えと整合性がある。
このように最先端の科学は、宗教との整合性を示しており、科学が宗教に追いついてきたという表現もできる。西暦1600年くらいから始まった西洋科学では、いわゆる超常的事例は科学で説明できないものとして研究対象から外されてきたが、科学で解明されていなくても、間違いなく存在する現象は事実として認め、研究するべきであろう。そのような現象を科学から排除しようとすることは、人間の能力不足や傲慢としか言いようがない。
前回のコラムで紹介したイアン・スティーブンソンの生まれ変わりの研究や、今回のコラムで紹介した政木の体験は、輪廻転生とカルマの存在を示すような事例であるが、意識や魂と呼ばれるものの正体が何なのかは、いまだに科学的に解明されていない。しかし、上述のように、最先端の量子力学や宇宙物理学は、超常事例と言われてきたような現象と親和性のある理論を提供している。
本当の宗教・偽物の宗教
政木は本来の宗教について、以下のように述べている。
そもそも宗教というものは、仏教でもキリスト教でもイスラム教でも、必要な時代の必要な場所に、同じ生命体によってもたらされたものであり、根本の教えはみんな同じものであるはずだ。
その意味では、宗旨や宗派の違いによる争いや、宗教戦争などは、起こるのがおかしいのである。こういったことを起こすというのは、本来の宗教のあるべき姿ではない。
また、信者などに金品を要求するような宗教も、本当の宗教とはいえない。こういう宗教は、「株式会社○○教」という、単に収益を得るための金儲け団体であり、邪教といってもいい過ぎではないだろう。邪教に溺れたら悲劇である。
政木が言う通り、宗教の宗派による戦争など当然、起こすべきではないだろう。また、収益を得るための金儲け宗教団体など論外であり、それこそ輪廻転生とカルマによる罰を受けるであろう。
筆者は、いかなる宗教団体にも所属しておらず、所属する予定もないが、輪廻転生とカルマはあると考えている。政木のような並外れた能力を持つ人間には見えて、凡人には見えていないことがあり、そのような超常事例については、まだ科学での解明が追いついていないのだろうと思っている。
以前のコラムで紹介したクラフォード賞受賞者であり、ビッグバンという言葉の生みの親であるフレッド・ホイルは、科学で導かれた結論と宗教との整合性や、宗教の概念について著書で以下のように述べている。
興味深いことに、われわれが到達した結論、すなわち宇宙に知性があることをロジカルに要請することは、世界の主だった宗教の教義と整合性がある。世界中のさまざまな文化の中で、「創造主」は独自の姿形をとる。エホバ、ブラフマー、アラー、天の父、神…… 宗教の数だけ呼び名もある。けれども、その根底に横たわる概念は、どれも一緒だ。それは、宇宙は――特に生命の世界は――想像もつかないほど強力な人間型の知性を持つ「存在」によって創造されたということだ。これまで地球上で生きてきた人間の圧倒的多数が、この概念を完全に、無条件に、本質的に受け入れていたことを忘れてはならない。
各宗教での創造主の呼び名が何であっても、政木が言うように、本物の宗教の根本はみな一つなのであろう。
→次回のコラムに続く