味覚は幻想か ~量子力学で解き明かす味覚のメカニズム~
今までのコラムで、宇宙や植物における量子の神秘的な作用を紹介してきた。それでは、万物の霊長といわれる人間の人体内部においては、どのような量子力学が働いているのであろうか。今回は人間の味覚・嗅覚の本質について、考察していくが、そこにもやはり量子力学の驚くべき作用が存在する。
味覚は存在するか
かつて、ギリシャの哲学者デモクリトスは次のように言った。
「私達は習慣によって、甘味があったり、苦味があったり、熱かったり、冷たかったり、色があったりすると思うが、現実に存在するのは原子と真空だけである」
デモクリトスは、物質の味・温度・色は、本質的な性質ではなく、ミクロの世界の、より根源的な法則から導かれるものだと考えていた。デモクリトスの考えたように、味覚とは一種の幻想なのだろうか。以下で、味覚の正体について、量子の観点から考察していく。
味覚のおよそ9割が匂いの感覚
人間は食べるときに、味覚によって味を感じていると大抵の人が思っている。しかし、実は我々の味覚の9割は匂いの感覚であると考えられている。
食べ物を味わう時は、舌の上にある化学物質を味覚受容体が感知するのだが、味覚受容体は5種類しかない。そのため、甘味・酸味・辛味・苦味・うま味という5種類の基本的な味の組み合わせしか知覚できないのである。
それに対して、嗅覚受容体は非常に優れており、食べ物が発する揮発性の匂い物質は、何百種類もの嗅覚受容体を活性化させる。それによって、我々は味覚よりも、はるかに豊かな何千種類もの香りをかぎ分けることができ、香りの良い料理を味わい、スパイスやハーブ、フレーバーを楽しむことができる。
嗅覚受容体から匂いを感じるメカニズム
それでは、嗅覚受容体とは一体、どういうものであろうか。人間は驚くほど、精巧な嗅覚機能を持っており、約300個の嗅覚受容体遺伝子によって、およそ1万種類の匂いを嗅ぎ分けている。鼻の奥の方にある嗅覚上皮が分子を感知するのだが、嗅覚上皮は粘膜分泌腺と数百万個の嗅覚神経細胞から組成されている。そして、神経細胞からの信号を脳に伝え、人間に匂いを体験させる。
人間が匂いを感じるメカニズムは以下のとおりである。
【匂い感知のメカニズム】
1.揮発性の匂い物質が発生
2.鼻が嗅覚上皮に空気を通す(鼻そのものは嗅覚の役割を果てしておらず、鼻の奥の嗅覚上皮の方に空気を通すだけの役割)
3.嗅覚上皮の嗅覚神経細胞の先端の繊毛が匂い分子を捕らえる
4.神経細胞の細胞膜にあるチャンネルが開く
5.正の電荷を持ったカルシウムイオンが細胞内へ流れ込む
6.細胞内へのイオンの流れによって発生した電流がスイッチとなり、活動電位と呼ばれる電気信号が発生
7.電気信号が軸索を伝わり、脳の嗅球に到達
8.脳で神経処理がなされることで香りを体験
嗅覚受容体が匂い物質を捕らえるプロセス
上記の匂いを感知するプロセスの中で問題になるのが、嗅覚神経細胞が匂い分子をどのように捕らえるかである。約300種類しかない嗅覚受容体によって、約1万種類もの匂い分子をどのように区分できるかという難問が存在する。例えば、300種類の嗅覚受容体のうち、この受容体はリンゴの匂い担当、この受容体はミカンの匂い担当というように割り振られていると仮定すると、300種類の匂いしか体験できないということになり、人が約1万種類もの匂いを嗅ぎ分けることを説明できない。つまり、嗅覚受容体の種類と匂いの種類は明らかに1対1に対応しておらず、脳が匂いを感じる仕組みを説明できないのである。この問題に答えを出したのが、リチャード・アクセルとリンダ・バックであった。
彼らは、1個1個の嗅覚神経細胞の、特定の匂い物質に対する感受性を調べる手法を開発し、実験を行った。その結果、それぞれの匂い物質は1種類ではなく、何種類かの嗅覚神経細胞を活性化させ、また、1種類の嗅覚神経細胞は何種類かの匂い物質に反応することが分かった。数百種類の嗅覚神経細胞が膨大な数の組み合わせで活性化することによって、約1万種類の匂いを生み出しているのである。
嗅覚の最大の謎
上記のアクセルとバックの研究によって、嗅覚の難問は解けたかのように思われたが、まだ謎は残った。1個1個の嗅覚受容体は、どのように自分が担当する匂い分子だけを認識して捕らえ、それ以外の膨大な化学物質は捕らえずに通過させるという判断ができるのであろうか。この問題が嗅覚の最大の謎であった。この問題に関しては、今までにいくつかの学説が提唱されたので、以下で検討していく。
(1)形状説
形状説とは、匂い分子の形状が受容体に作用するという説である。この説明は、鍵と鍵穴のメカニズムに基いている。匂い分子が鍵で、それが嗅覚受容体の鍵穴にはまるという理論である。例えば、リンゴの匂い分子は三角形、バナナの匂い分子は四角形といったように形があり、それぞれの形をはめ込むことができる形状の嗅覚受容体が存在するという理屈だ。この形状説が従来からの説明であったが、やがて形状だけでは匂いを説明不可能であることが明らかになった。互いに全く違う形をした何種類もの分子が同じ匂いをを発したり、逆に、互いにとても形状が似ている分子が全く異なる匂いを発したりしていることが分かり、匂い分子の形状だけで匂いのメカニズムを説明することが不可能になったのである。
(2)振動説
嗅覚受容体は分子の振動数を感知しているという学説である。この学説を理解するには、まずラマン分光法を理解することが適切であると思うため、紹介しておこう。
[ラマン分光法]
試料に光を当て、当てた光と出てきた光それぞれの色、すなわち振動数(エネルギー)の差を記録する。これをラマンスペクトルと言い、この手法を発明者の名前にちなんでラマン分光法という。化学者はこの手法を活用して分子構造を調べることができる。
マルコム・ダイソンは、このラマンの研究に着想を得て研究を行い、鼻は原子間の結合の振動数を感知していると提唱した。そして、それぞれの匂いに対応する共通の振動数まで特定した。例えば、メルカプタン(末端の硫黄-水素結合を持つ化合物)は、全て2567~2580の振動数に特有のラマンピークを持っており、全て腐った卵の匂いがする。
また、ルカ・トゥリンはダイソンの研究から、さらに踏み込み、生体分子は電子の量子トンネル効果を使って化学結合の振動を感知していると提唱した。以前のコラムで量子トンネル効果について説明した。量子トンネル効果とは、幽霊がコンクリートの固い壁をすり抜けるように、粒子が壁を通り抜けてしまう量子の神秘的な作用のことである。ここで、トゥリンの理論を理解するために、重要なキーワードは、「弾性トンネル効果」と「非弾性トンネル効果」であり、以下のような現象である。
[弾性トンネル効果]
電子がエネルギーの獲得・喪失をせずにトンネルする。電子がドナーからアクセプターにトンネルできるのは、ドナーのエネルギーレベルと全く同じエネルギーレベルの空席がアクセプターに存在するためである。
[非弾性トンネル効果]
ドナーとアクセプターのエネルギーレベルが異なる。そのため、ドナーのエネルギーレベルよりアクセプターの空席レベルの方が低い場合、電子はトンネルするために、エネルギーの一部を捨てる。
トゥリンの理論では、匂いを感じる仕組みに非弾性トンネル効果が関与しており、以下のようなプロセスで匂いを感じるという。
【匂い感知のプロセス】
1.嗅覚受容体が分子を捕らえる
2.受容体のドナー部位にある電子は、アクセプター部位とのエネルギーの違いがあり、普段はトンネルできない状態であるが、捕らえられた匂い分子がちょうどよい振動数を持っていると、電子が匂い分子にちょうどよいエネルギーを与え、ドナーからアクセプターへトンネルする。
3.アクセプター部位に来た電子が、つながれていたGたんぱく質をを発射させる。
4.嗅覚神経細胞が発火する。
5.信号が脳に伝わる。
6.脳の神経処理により香りを体験
トゥリンは、この量子振動説を証明するために、状況証拠を大量に集め、同じ振動数を持つ分子だけが硫化水素のような匂いを持つことなどを発見した。
その後、エフティミオス・スクラキスが率いる研究チームは、ハエを使った実験を行い、実験結果は目を見張るものであった。66テラヘルツの振動数の炭素-重水素結合を持った化合物を避けるように訓練されたハエは、科学的に全く異なるものの同じ振動数の炭素-窒素結合を持ったニトリル類と呼ばれる化合物も避けたのだ。この実験によって振動説は強力に裏付けられた。
しかし、その後、化学構造もラマンスペクトルも同じだが、互いに鏡像関係にある分子が異なる匂いを発している例があることが分かり、匂いは振動数のみで検知されているという主張は困難になった。なお、互いに鏡像関係にある分子とは、手袋の右手と左手のようなものであり、同じ化学結合を持っているが、分子のある部位が右側を向いているか、左側を向いているかの違いがある分子同士を「鏡像関係にある分子」という。また、右手型と左手型がある分子を「キラル」という。
(3)形状と振動の両方が関係するという学説
振動数は同じだが、匂いが異なる鏡像分子の問題を解決する方法として、マーシャル・ストーナムは形状と振動の両方が嗅覚受容体に捕らえられると考えた。それは磁気カードモデルとも呼ばれる学説である。
それでは、磁気カードモデルを具体的に考えていこう。この学説は、嗅覚受容体の結合部位は磁気カードのカードリーダーのように作用すると考える。磁気カードリーダーは、どんなカードでも読み込めるわけではなく、形・厚みがあったカードしか読み込めないが、嗅覚受容体も同様の仕組みだという。そのため、右手型分子と左手型分子はそれぞれ異なるカードリーダー(嗅覚受容体)に捕らえられる。匂い分子は正しいカードリーダーにはまり込んで初めて結合の振動による量子トンネル効果が起こり、嗅覚神経細胞が発火する。右手型と左手型の嗅覚受容体は、それぞれ脳の異なる領域につながっているため、匂いは違ってくる。このようにして、形と振動の認識を組み合わせることによって、全ての実験データを説明可能なモデルが得られたのだ。
非弾性量子トンネル効果のみが嗅覚メカニズムを説明可能
磁気カードモデルに対しては、現段階でも異論はある。しかし、匂い分子の振動を検出する仕組みを説明できる理論は、電子の量子トンネル効果しか知られていない。ハエや人は、通常の分子と重水素化した分子をも嗅ぎ分けられるのだが、そのことを説明可能な理論は、非弾性量子トンネリングという量子力学的メカニズムに基づくものしかないのである。
おそらく人やハエだけでなく、膨大な種類の動物が量子的な嗅覚を持っていると推測される。人は日常生活では、マクロの世界の物質の現象しか意識していないが、その根底にはミクロの世界で作用する量子力学的な現象が存在するのである。
味覚は幻想か
味覚のメカニズムについては、以上のように理解することができた。ここで、本コラムの冒頭で述べた、デモクリトスの「味覚は存在しない」という言葉について考察してみよう。つまり、味覚は存在するか、もしくは幻想なのかという問題を考えたい。
上述のように、メルカプタン(末端の硫黄-水素結合を持つ化合物)は、全て2567~2580の振動数に特有のラマンピークを持っており、全て腐った卵の匂いがする。そうすると、人間の脳は、腐った卵でなくても、振動数が2567~2580の物質を食べると、その物質が卵とは全く異なる物質であっても、腐った卵を食べていると勘違いし得るということである。実際には、視覚や触覚によって、その物質が腐った卵ではないと気づけるではないかという反論がありそうだが、見た目も触感も、本物の腐った卵とそっくりな人工の食物が開発され、振動数も本物の腐った卵と同じ2567~2580だと仮定してみる。その場合、本物の腐った卵とは全く異なる分子化合物であっても、人間の脳は騙され、腐った卵を食べていると知覚することになる。
ここで重要なのは、嗅覚受容体が振動数を感知し、その電気信号が脳の嗅球へ送られ、2567~2580という振動数を、腐った卵という情報に変換しているということである。そうであれば、そもそも腐った卵という物質が存在しなくても、2567~2580という振動数の情報を、電気信号で脳の嗅球に送信できれば、腐った卵の匂いがするものを食べていると知覚させることが可能ということになる。すなわち、実際には何の物質も食べていなくても、腐った卵の匂いがする物質を食べていると、脳に認識させることが論理的には可能である。
また、物質とは何かという問題を考えると、以前のコラムで紹介したように、量子力学の祖と言われるノーベル賞受賞者であるマックス・プランクは、「あらゆる物質は存在しない。 全てのものは振動で構成されている」という言葉を残している。今回、腐った卵という物質が存在しても、しなくても同様の電気信号を脳に送信できれば、腐った卵を食べていると脳が知覚することが論理的に可能であると述べたが、マックス・プランクが言うように、そもそも、あらゆる物質が存在せず、全てのものが振動という情報で構成されていると考えると、デモクリトスが言ったように、人間の味覚も本当は存在せず、味覚は幻想であるという表現も成り立つ。
今までのコラムで紹介したように、量子力学の目覚ましい進歩によって、量子が幽霊のように壁をすり抜けたり、同時に二つの現実が存在したり、離れた粒子がテレパシーのように瞬時に反応し合うという、古典物理学では全く説明不能である現象の存在が証明されている。デモクリトスが言ったように、物質の味・温度・色は、本質的な性質ではなく、ミクロの世界の、より根源的な法則から導かれるものなのであろう。
→次回のコラムへ続く