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[詩] ぬらぬら

それまで先代に会ったことはなかった。使うひとの書き癖を見て万年筆のペン先を整えてくれる名人。父の書き癖は強く、長く使い込まれたペン先には父がそのまま映り込んでいる。名人はそれを見るなり〈なるほど〉と小声で言い、さっき店の入口で私に書かせた名前や住所の文字に、ちらりと目を遣った。
〈ニブ・ポイントは、金ペンの先に付けられている硬い合金の玉っころでね。そいつを削ったり磨いたりして、使う人の書き癖に合わせるのが仕事なんですよ〉とすらすら口にする。そして万年筆の構造や研磨の技法にも話は広がる。グラインダー(電動研削器)の死角にわざわざペン先を置いて指先の感覚ひとつで形を整える技を修めている、とも言う。〈グラインダーを使ったあとの手磨きは、このエメリー紙でやります。何種類かの紙を使い分けて研ぎ上げるんです。なに、どのエメリー紙も私が一生使う分は十分手元にありますから、無くなる心配なんてありません〉。
目を見ながら聞くうちに、腕の確かさがつたわってくるようだった。

若い頃、父は小説を書いていた。高度経済成長期の池之端でひとり書いていた。一度、あまり聞かない出版社の賞を受けたことがある。それがよほど嬉しかったのか、分不相応な万年筆を買い求めたのだ。どんな文字でも良く書ける味に唸り、その調整をしてくれた若い職人に礼を言った。〈必要で十分な量のインクがペン先から出てくれるでしょう、インクの道が伸びてゆくみたいに。どうです、ぬらぬらでしょう〉。若い二人は、その響きに苦笑した。
その後、ペンの調整をしてもらいながら、父は一作また一作と書いた。ただ、次のペンを買うことはなかった。

名人はよく憶えていた。今ではもう見かけなくなった旧式のインク吸入方式のこのペンと、その持ち主のことも。ペンを強く傾ける癖のせいで、ニブ・ポイントが片減りしている。〈そうそう、この握りでした〉と独りごちて、父の面影や指紋にさえも触るように何度もペン先を撫でた。〈少し調整すれば、あなたならまだ十分使えます。よく似た書き癖をしておられるようですから〉と言いのこして奥の作業場へと立つ。扉の向こうに、もうひとり働くひとが見えた。
小一時間ほどして、名人はもどってきた。すっかり垢を落としたペンは少しよそよそしく見える。ルーペを取り出して、父が大きく擦り減らした箇所を改めて見せてくれる。〈硬いニブ・ポイントがこれほど減るには、よほど大量の文字をお書きになったんでしょう。ご本人の手に馴染むようにペン先が自らの形を変えるので、このペンはとても使いやすかったはずです。擦り減ってしまったペン先は、原稿用紙に消えてしまいました〉。名人はペンのキャップを軸の尻に差し直してから〈あなたなら〉と、ゆっくり手渡す。大きめの紙を広げて、試し書きを薦めた。一度ペンを握り直してから、父の代表作品名を書く。たっぷりのインクが濃く光って紙に盛り上がり、ペン先から青い航跡がぬらぬらとつづく。一息おくと、インクは滲むことなく寝入るように紙に定着していった。

手で文字を書くことの少ない時代になって、かえって自署にこだわる人が増えたと聞く。銀座の文具店は万年筆売り場を広げたようだが、ほんの少ししか文字を書かない人たちに名人の技は、もう要らないらしい。しばらくして、二代目から廃業の知らせが届いた。

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