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自己肯定感という感覚依存

自分自身の中ではっきり区別できるようになると、自己肯定というものは全く必要なくなります。

人間が言う、自己肯定とは、相対的な思い込みに基づいて行われているように見えます。

相対的な思い込みとは、この社会での規定に基づいた、もしくはこの世の中の常識の中にある良し悪しを自分に適用してる事でもあります。

例えば、小学生1年生と中学生1年生。

中学生は小学生に対して、自分が優れているとか、大丈夫だとか思い込む必要があるでしょうか。

ほとんどの場合それは、ないように思います。

そもそもなぜ自己肯定が必要なのかという事を知らないまま自己肯定感を高めようつする人間の動きから、違和感が起こります。

肯定する、しないは、自覚人からすると、主観であり、思い込みです。

転じて心持ち次第という事にもなるのですが・・・

思い込み次第の心持ち次第は、私が普段伝えている心持ち次第とは大きくかけ離れたものとなります。

いうなれば、

思い込み次第は、日本のスピリチュアルです。

心持ち次第とは、在り方次第・・・これについては語りつくせません。

この区別ができる方が、差取り塾にいらっしゃいます。

その区別ができないでいるために、迷いの中にいらっしゃる方が人類の大多数でもあります。

自己肯定感が大切という思い込みに守られてそこからさらに成長していく事を否定はしませんし、ある時期においては必要な事だと考えます。

わたしは、自己肯定という動きを否定しませんが、本来いらない事をいるようにして話を複雑にし、人が本来持っている力を分散させることで、力を失ったようにに見せている事に改善の可能性を見ています。

ここまで書きましたが、こういった事を伝えている方はいらっしゃるでしょうか?

わたしは、そういった事を勉強しないのでわたしが知らないだけかもしれません。

もしいらっしゃるなら、コメントで教えてください。

また、起こっている事を起こっているように見る事ができる観点に立つなら、そういった勉強は必要ありません。

その様な観点に立つなら、明らかに、物事の起こりがわかるようになるからです。

わたしがお伝えしている事は知識ではありません。

教えでもありません。

その観点に立つ事ですべてが詳らかになる・・・

そこに至るサポートをしています。

そこに立てる方、立とうつする方を探しています。

知識を付けたい方は、わたしの担当するところではありませんから、他をお勧めいたします。

この世のルールの中での縛りで頑張りたければ自己肯定感を高める方法を一生懸命勉強、実践する事は悪くありません。

この世でどう生きるかという事より、

誰かが作った、この世のルールの中でどう生きるかと考える方がほとんどだという事も書き加えておきます。

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