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悟りが開けた日

 2023年10月14日。浄土真宗関連のYoutubeを見ていた。数年前から、宇宙の構造、世界の仕組みを物理学的観点から自分なりの解釈をしようといろいろ考え続けてきた。

 ある方(N氏としよう)と物理学の原理についてずっと対話をしていた。人類が理解してきた自然の仕組みから宇宙の構造が解き明かせるのではないかと。物質は原子の塊、原子は素粒子の集合体と言った物事を細分化していって世界を理解するというのではない。これで理解しょうとしてもいつまでもどこまでも微細化できるに違いない。玉ねぎやマトリョーシカのように中に組み込まれたまた別のものに還元できてしまうのではないか。そうではなく何かもっと根源的な仕組みがあるのではないか、という気持ちである。というより妄想に近いだろう。

 N氏との話の内容は物理学だけにとどまらず、化学、生物学、数学、宗教、哲学など多岐にわたっていた。話しを続けている内にこれらは密接な関係、いや、ほとんど同じ分野として語れるのではないかという雰囲気になっていったのだった。宇宙の構造がこれらで分かるような気がしてきたのだ。

 その中に存在している人間とは一体何か。宇宙や世界を感じ取る「意識」とは。果たして今まで我々が理解してきた宇宙の姿、形、物理学は本当に正しいのか。宇宙の構造を本当に理解するには、別の解釈が必要ではないのか。仮説から検証という科学の手法は限界に来ていないか。今まで還元主義で構築してきた科学によって大方の自然を思うままに操っている人類は、宇宙のことを分かった気になっているだけではないだろうか。

 と言った話しを数年間続けてきた。とうとう「こう考えればいいのじゃないか」というのが出てきた。厳密な定義とか数式ではない。おぼろげな感じで宇宙をこう理解すれば全てが上手くつながる。そんな感じがしてきた。

 しかしまだぼんやりとしていて、深い霧の中でウロウロしているようだった。それからまた数年間、宇宙の構造をはっきり理解するためのその先を一人で考え続けた。

 ある時、何かのきっかけで歎異抄が気になりだした。

さるべき業縁のもよおせば、いかなる振る舞いもすべし

 有名な「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」以外の文言を知ることとなった。もともと家の宗教が浄土真宗であることもあって、親鸞がどの様な考えで歎異抄の内容を語ったのかに興味が湧き、歎異抄そのものを読むと同時に浄土真宗関連のYoutubeを多く見た。見ている内に現代の浄土真宗が伝えていることとと親鸞が伝えたかったこととがどうもずれているのではないかと思うようになった。もうこれ以上浄土真宗について知る必要なないかも知れないと思いかけていた時に、「信楽(しんぎょう)」と言う概念を解説しているYoutubeを見て、「はっ」となった。宇宙の構造を考え抜いて、漠としているのだが自分なりの解釈が少しでもできた状態が信楽の境地ではないか、つまり「悟り」を得たことではないかと思えた。ようやく真理らしきものが見えてきたという感触だ。まだまだ不完全だ。と言うもののおぼろげだが、闇夜の中に小さな光が見えたような感じだった。

 死ぬまでの将来に対する不安、病気や死に対する恐怖がこの瞬間より殆どなくなったような気がする。真っ先に、このことをその時、別の部屋にいた妻に話した。「よく分からん」ということだった。そりゃそうだ。何年も考えてきた内容を数分で話せるように理路整然とするにはまだ数年はかかるだろう。

※口絵は三歳になりたての孫が無我の境地で描いた宇宙の構造を示していると思われる曼荼羅

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土宜法龍宛書簡(南方マンダラほか)


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