橋と箸は実は同じじゃないか説
同じなわけないよね
日本語って同音異義語ってのが多い。
「橋」と「箸」とか、
全然違うものなのに呼び方同じって
ややこしくてしょうがない、って思う。
ずっとそう思っていた。
だけどある日、
あれ?これってたまたまじゃないかも。
って思ってしまった。
んなわけあるかい。
見た目も大きさも同じとこなんて一つもない。
まあそう思いますよね。
だけどモノのカタチよりももっと深いとこ、
何となくの感覚だけで捉えてみると
意外に共通点がある。
モトを辿ってみる
「棒」なんである。
今は橋なんてすごく立派なものを思ってしまうが
昔だとたぶん丸太の棒だ。
大きい小さいの違いはあるが、
木の棒でできたものに違いはない。
で、その木の棒を川に架けるという行為は
川の向こうとこっちを繋ぐことになる。
あっちの端とこっちの端。
「端」も同じところに存在している。
昔の話なんで想像でしかないが、
言葉は「目で見るもの」じゃなく
「耳で聞くもの」だったはずだ。
文字読めない人も多かったはずだし。
言葉は耳で聞くだけだと、
具体的なカタチを表すものというよりは、
もっと感覚的、概念的になるんではないか。
…な感じのもの。ってことね。
見た目じゃなくて感覚
そう考えると橋も箸も概念的には
実はよく似たものだということがわかる。
他にもパッと思うのは「雨」と「飴」とか。
気象と食べ物なんて概念的にも違うだろ、
と思うかもしれないが、
雨を雨粒と捉えるとすごく似ている。
降るものと舐めるもの、と分けるのは
もっと末端的な情報で、
感覚的に捉えるとこんな似てるものもない。
そう言えばどっちもドロップだし。
「森」と「盛り」とか、
状態として考えるとなんか似てる。
どっちもこんもりしてるしね。
大盛りと大森さんは同じかもしれない。
わかんないけど昔の人って、
今の僕らよりもっと感覚てモノを捉えてた。
そんな気がします。
で、なんかそっちの方がレベルが高い気がする。
僕らは表面的にモノを見過ぎなのかも。
あ、今日の話は僕がそう思ったってことで
何の裏付けもないので、
そこよろしくお願いします。