図録とともに美術展を振り返る(3) 〜コートールド美術館展
「場所もとるし、もう図録を買うのはやめよう」とずいぶん断捨離もしちゃったんだけど、あるきっかけで「やっぱり美術展の図録はなるべく買うことにしよう」と心変わりした。
このシリーズでは、行った美術展の図録を読み込んだり、家に残っているいくつかの図録を見返したりしていきます。他のはこちらにまとめていきます。
(※図録:美術展や展覧会で販売されるカタログのこと)
コートールド美術館展に行ってきた。
東京での公開は今週末の日曜日までなので、早く行った方がいいよ。
※
東京都美術館(2019年9月10日〜12月15日)
愛知県美術館 (2020年1月3日〜3月15日)
神戸市立博物館(2020年3月28日〜6月21日)
印象派と新印象派に特化したイギリスのコートールド美術館の美術展。
スペルだと、Courtauld。
なんかたぶん日本人的には「コートルード」のほうが覚えやすいみたいで、10人中8人くらいはそう言っちゃっているけど、スペルを見てわかるように「コートールド」ですねw
サミュエル・コートールドという実業家の印象派コレクション。
彼は、精力的に収集を行った挙げ句、美術史を専門とした「コートールド美術研究所」を創設し、コレクションの大半を寄贈したという。これがこの美術館の始まり。
印象派の美術館として有名なのは、オルセー、オランジュリー、マルモッタン・モネとかだけど、コートールド美術館も素晴らしいなぁ。ひとりの実業家の目でキュレーションされているせいか、なんとなく統一感がある。
めったに来日しない作品ばかりらしいけど、コートールド美術館が改装になるので、その機会に日本に持って来れたらしい。
次はたぶん相当先になるので、これ、見といたほうがいいと思うなぁ。
そういう教育機関が元になっていることもあり、今回の美術展は「名画を読み解く」という方向でのキュレーションになっている。
これがまたとてもタメになるので、オススメだ。
さて、例によって図録。
ハードカバーの豪華な作りで2500円。
いつもながら、オトクだなぁ(図録がお得な理由はこちら)。
大きく3章に分かれていて、
第一章 画家の言葉から読み解く
第二章 時代背景から読み解く
第三章 素材・技法から読み解く
第一章では、セザンヌからエミール・ベルナールへの書簡が資料として展示されていて、実に興味深かった。ほんの少し抜き書きしてみる。
自然を円筒、球、円錐によって扱いなさい。物や面の各側面がひとつの中心点に向かって集中するようにすべてを遠近法のなかに入れなさい。
水平線に平行する線は、ひろがり、つまり、自然の一断面、こう言ってよければ、全治全能にして永遠の父なる神が我々の眼前にくりひろげる光景の一断面を表現します。この水平線に対して垂直の線は深さを表現します。
ところで我々人間にとって自然は表面ではなく奥行きをもったものとして現れます。そのために、赤と黄で示される光の振動の中に、空気を感じさせるために十分なだけの量の青系統の色を導入する必要があります。
私は常に自然に即して研究し緩やかに進歩しているように思います。側にあなたがいて下さったら良いのにと思います。孤独がいつも少しばかり堪えるからです。
私は年老い、病気ですが、せめて、絵を描きながら死のうと心に誓いました。世の多くの老人のように、五感の衰えに為す術もなく醜く呆けてしまうよりは遙かにましです。
私は自然に即して研究することで見たり感じたりするものの論理的発展を信じます。表現方法に取り組むのはその後でも構いません。それは単に、私たち自身が感じることを大衆に感じさせ私たちの存在を認めさせるための方便にすぎないのです。私たちが称賛する偉大な画家たちもこのことだけを実行したに違いありません。
セザンヌがそういう風に分解して絵を描いているのは知っていたけど、こういう書簡を見るとそれがリアルになるというか、そういう見方をもっともっと意識してセザンヌを見たくなる。
愛読している本『絵を見る技術』(秋田麻早子著)の中で、セザンヌの『カード遊びをする人々』についての解説があって、それに感銘を受けたことを思い出す。
(今回の美術展でもこの連作5枚のうちの1枚が来ていて実物が見られた)
解説の一部を引用する。
二人の主役を結ぶポイントは中央にあります。カードを握りしめた手をお互いに突き出しているのですが、ここが「結び目」になっていて、テーマをずばり象徴しています。
お互いのポーズや拳の形は相似形を為していますが、カードの明暗と二人の明暗とがテレコ(互い違い)になっているのが分かるでしょうか。右側の男性には光が当たって明るいのに対し、持っているカードは黒っぽい。左の男性は全体的にダークカラーですが、カードは真っ白。この二人においていろんな要素が対になっていることを示しています。
ジャケットとズボンの色が、互い違い。某市の縁が描くカーブが上向きと下向き。パイプをくわえている/くわえていない。右側の男性のほうがやや体が大きく感じますが、カードを持つ手は少し低い位置に。
背景にも対比があります。右の男性の後ろは縦の線。左の男性の後ろは横の線が目立っています。
このように、いろんな要素が、足し引きで拮抗しています。それを、付き合わせた二人の持ち札が、つないでもいるし、象徴してもいるのです。
(『絵を見る技術』P60より引用)
いままでこういう視点で絵を見たことがなかったので、すごくびっくりした。
しかも、どこでだか忘れたけど、もっと幾何学的にこの絵を分析している本だったかサイトだったかも見て、「いやぁ、本当にセザンヌって、対象を論理的に見て、それを論理的に絵にしていったんだなぁ」と感じ入ったことがあった。
理屈っぽく見るのは嫌いじゃないので、セザンヌはもっと追ってみたい。
ちなみに、セザンヌでは、代表作の『大きな松の木のあるサント=ヴィクトワール山』も来ていた。
これを見るたびに、エクス=アン=プロバンスに行ったときにサント=ヴィクトワール山をもっともっと注意深く見れば良かったと後悔する。
セザンヌは、好きな果物の静物画もいくつか来ていて嬉しかったな。
やっぱり実物は違うわ。
ボクは、そう、セザンヌがとても気になるのだけど、印象派周りで誰が一番好きか、と訊かれると、いまのところ圧倒的にマネなのだ。マネ先輩。
マネとセザンヌが好き。
シスレーとピサロもまぁまぁ好き。
ルノワールやモネやゴーガンはそれほどでもない。
ゴッホはちょっと別格(なんか惹かれる)。
という感じ。
そういう意味で、マネのこれの実物が見れたのは今回の大きな収穫のひとつ。
マネ「フォリー=ベルジェールのバー」
展示の途中で、ビデオが流れていて、このフォリー=ベルジェールというミュージックホールが実際に映し出されていたのを見て、なんかすごく感激した。うわー。残ってるんだ。うわー。これを描いたんだ。ここで着想したんだ・・・。
実際は、アトリエにバーを再現して、モデルも呼んで描いたらしいのだけど、でも、実際の現場を見るって、ちょっとゾクゾクする。
図録では東京大学の三浦篤教授による「『フォリー=ベルジェールのバー』をめぐる考察」という長文が載っていて、これもすこぶる興味深かった。図録ってこういうのを読めるのがすばらしい。
「フォリー=ベルジェールのバー」がマネの絵画様式の集大成であるのは、空間の奥行きを抑制した平面的な構成の中で明確に造形した人物像を画面の中心に据える1860年代の様式と、印象派と接近してマネ独特の筆触の効果を多用し始める1870年代の様式を総合しているからである。
前景で存在感を示す女性像と背景の鏡像のゆらめくような群衆の対比がそのことを物語っている。また、この絵には人物のみならず、見事な筆づかいで描かれた静物も観察される。マネの名人芸的な筆さばきは1860年代から描き続けた静物画に端的に表れており、その精髄ともいうべき質を示す酒瓶や果物鉢や花の描写が、カウンターの上で披露されているのである。
さらには、画面の端に見られるモティーフの切断もマネが常に使い続けた手法で、画面左上の空中ブランコ乗りの足と、右端で断ち切られた男性の姿に適用されている。
パリの現代生活の諸情景を生涯にわたり描き続けてきたマネは、最後に華やかな夜の世界に屹立する美しいバーメイドを主人公に選び、自らの画業の白鳥の歌とした。「フォリー=ベルジェールのバー」がマネ芸術全体を集約するような豊かな内容を示す作品であることは間違いないところである。
この後、「鏡像の謎」と、「バーメイドの表情と視線の謎」に迫っていく。
とても面白く、この絵の見方がまた少し深まった。
マネは「アルジャントゥイユのセーヌ河岸」も良かったな。
他にも、モネ、ルノワール、ゴーガン、ゴッホ、ピサロ、シスレー、シニャック、ルソー、ドガ、ロートレック、スーラ、モディリアーニ、ボナール、ヴュイヤール、ロダン、ホイッスラー、ブーダン、ドーミエ、スーティンなどがあり、圧巻。
あんまり知らなかったところでは、ボナールとヴュイヤールとブーダンの前で足を止め、見とれていた。
あ、モネの「アンティーブ」、「秋の効果、アルジャントゥイユ」の二作もとても良かった。
ということで、思いついたままに書き散らしてしまったけど、コートールド美術館展、オススメです。
あー、楽しかった。
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