図録とともに美術展を振り返る(2) 〜2019年「ゴッホ展」
「場所もとるし、もう図録を買うのはやめよう」とずいぶん断捨離もしちゃったんだけど、あるきっかけで「やっぱり美術展の図録はなるべく買うことにしよう」と心変わりした。
このシリーズでは、行った美術展の図録を読み込んだり、家に残っているいくつかの図録を見返したりしていきます。他のはこちらにまとめていきます。
(※図録:美術展や展覧会で販売されるカタログのこと)
上野の森美術館で行われている「ゴッホ展」に行ってきた。
2019年10月11日〜2020年1月13日開催。
(※兵庫県立美術館で2020年1月25日〜3月29日)
ゴッホが、あの独特のスタイルを確立するにおいて、もちろん様々な画家や風景や文化から影響を受けていくわけなんだけど。
その中でも特に「ハーグ派」と「印象派」のふたつの芸術家グループとの出会いと交流から、ゴッホがどういう影響を受け、どう画風が変わっていったかを、丁寧に並列展示していったのがこの「ゴッホ展」。
単にゴッホの画家人生を追ったものとは違い、彼が成長していく様を、影響を与えた画家の絵とともに示してくれるので、なんかとってもわかりやすいし、そのときどきのゴッホの手紙の文章も同時に掲載されているから、そのときゴッホが何にときめいて、何に感動していたかもよくわかる。
とても楽しく、タメになる展示だった。
で、図録を買ったわけだけど、こういう風にテーマがハッキリしている美術展の図録は、特に有用だ。何度も復習して楽しめる。
まず、個人的にビックリしたこと(まだ知識足りないんで)。
・ゴッホはたった10年しか画家として活動していないこと
・その間に、油絵約850点、素描約1000点残していること(超多作!)
・多くの画家から多大な影響を受けてあのスタイルに至っていること
・超真面目に他の画家からのアドバイスを守ってること
なんとなくゴッホって感性だけで描いているイメージがあったけど、その初期なんかもう真面目に真面目に他の画家からのアドバイスを守り、地道に地道にスケッチを続け、真摯に貪欲に自分のスタイルを探していたんだなぁ。
この美術展は、「ハーグ派」と「印象派」のふたつのグループからの影響を読み解いているので、まずは「ハーグ派」から。
1880年、27歳にして画家になることを決心したファン・ゴッホは、独学で学び始めた。色彩理論や素描について書かれた本を読み、それを実践する場としてホルバインやミレーなど過去の巨匠の作品を模写した。
グービル画廊に勤めていた頃から敬愛していたミレーは、いまや精神的な拠り所だった。その作品に滲み出る農民や貧しい人々への温かな眼差しに共感し、同じように「農民画家」をめざしたが、それはまた、自然を舞台にして身近な日常を描いたハーグ派に対しても同様だった。(図録より)
ミレーはともかく、ホルバイン・・・。
まぁ確かに肖像画もゴッホの主要な領域のひとつだから、わからないでもないけど、なんか意外だったなぁ。
それと、そう、遅いんだよね、絵を志すの。
最初は画商グーピル商会に勤めるんだけど、解雇。
その後イギリスで教師として働いたり、オランダの書店で働いたりしているうちに聖職者を志す。
で、アムステルダムで神学部の受験勉強を始めて挫折。
ベルギーの炭坑地帯で独自に伝道活動を行っているとき、27歳にしていきなり画家を目指すことを決意したっていうんだから、なんつうか、遅い。
↓(グービル商会勤務時、19歳の写真。現存する唯一のゴッホの写真)
遅い上にデッサンなどの基礎をやっていないから、その後、ハーグ派のマウフェに教えを請う。
1881年の末にファン・ゴッホはハーグ派の中心的な人物・マウフェに教えを請い、翌年からはハーグに移住して他の画家たちとも交流し始めた。
当時、ハーグはオランダにおける芸術の中心地のひとつであり、ここに集った画家たちは街の周囲に広がる原野や水辺とそこで営まれる素朴な暮らしを詩情豊かに描いていた。
フランスのバルビゾン派にも例えられるこのグループには、当時イスラエルスにマリス三兄弟、ウェイセンブルフといった第一人者や、ファン・ラッパルトのような若手の画家たちがいた。ファン・ゴッホは彼らの指導を受け、またともに制作している。(図録より)(太字筆者)
ハーグ派は知らなかったんだけど、そうか、オランダにおけるバルビゾン派みたいなものか。
ハーグ派の画家の中では、ウェイセンブルフと、イスラエルス、マテイス・マリスがいいなと思った。ゴッホの師匠のマウフェはボクには少し味が薄い。
この時期のゴッホは、ひと言でいえば下手くそで、逆に微笑ましい。
ハーグ派から学んだもうひとつ重要な点は、戸外で風景を観察したり、モデルを前にして描くその姿勢である。
後にパリに出て印象派と出会い画風を大きく変えたときも、また南仏に移ったときも、その方法は変わっていない。何を描くか、そしてそのモティーフにいかに誠実に取り組むかといった画家としての信条を、ファン・ゴッホは早々に持ったのだった。
少しずつ技術を高めていったファン・ゴッホは、1884年になってようやく油彩画による大作にとりかかった。
そのための準備として、ひと冬をかけて農民の頭部や彼らが室内で過ごす様子を練習している。1885年の春に仕上げた『ジャガイモを食べる人々』は、人々が暗い室内で食卓を囲むという、複雑な構図と明暗の表現を要した。また、土とともに生き、自然の移り変わりに寄り添う農民のありのままの姿を表そうと試みたものでもあった。
初期の代表作となった本作は、修業の成果をいかすことのみならず、主題においてもまたファン・ゴッホの望みを叶えた。
この美術展の大きな欠落のひとつは、この、ハーグ派との交流の結実とも言える『ジャガイモを食べる人々』の原画をファン・ゴッホ美術館から持って来れなかったこと。『自画像』とかは持ってこれているので、きっと交渉は重ねたんだろうけど・・・惜しかった。見たかった。
とはいえ、リトグラフはあった。
でも、これは記憶を元に直後にゴッホが再現したもので、やっつけ仕事っぽいのは仕方がない。そしてそのリトグラフをラッパルトから手厳しく批判されているのもかわいそう。
次は「印象派」からの影響。
ファン・ゴッホはアカデミックな技法を重視していなかったが、一方でレアリスムの流れを汲むハーグ派の画家たちを賞賛し、また構図や遠近法、自然な色彩表現などを学んでいた。だからこそ、テオが印象派やモネについて熱心に語っても、あまり興味を示さなかったのだろう。
しかし、パリで初めて出会った作品の数々はこれまで築いてきた価値観を打ち壊すものだった。
モンティセリにより厚塗りや宝石のように輝く色彩。印象派による科学的な理論に基づいた筆触分割。やがてファン・ゴッホは彼らの作品を評価し、その技法を取り入れるようになる。
しかし、印象派の一員になったわけではなかった。新たな手法は、自分の描きたいものをより自由に描くための手段に過ぎず、だからこそ驚きもまだ覚めやらぬはずの2年後には南仏に向かったのだろう。
そこは、モンティセリやセザンヌが孤独にも独自の画風を追求した場所であり、ファン・ゴッホもまた彼らと同じ道を歩むことになる。
個人的には今回の「ゴッホ展」の最大の収穫のひとつは、モンティセリという画家の発見だった。
いやぁ、モンティセリ、すばらしい。
図録の写真では全然その絵の魅力は写せていない。
こればっかりは実物を見ないと何もわからない。そのくらい実物はキラキラ輝いていたし、厚塗りだけにいろんな方向から見ることで光の具合がかわり、作品はまったく別の表情を見せる。
良かったなぁ・・・『陶器壺の花』『カナゴビーの岩の上の樹木』『猫と婦人(猫の食事)』『庭園の宴』。
なんとモンティセリは雅宴画を多く手がけている。それを知って雅宴画が自分の中で再評価されたくらいである。
モンティセリはマルセイユ出身の異色の画家。
ロマン主義、象徴主義の要素を汲みながら、自由で激しい筆遣いや絵具の厚塗り、コントラストの強い色彩で、印象派や時代に先駆けた独自の様式を生み出した。
ファン・ゴッホは1886年パリに出てすぐにモンティセリの絵を知り、テオは彼の作品を6点購入している。そのうち1点が『花瓶の花』(※下の写真)である。ファン・ゴッホにとってモンティセリはとりわけ色彩の手本であり、手紙でも幾度となく賞賛を捧げている。(図録より)
ゴッホはテオへの手紙でも絶賛している。
モンティセリは、ひとつの画面上で広範囲にわたる色階が完璧に調和をとれるように、時々花束を描いた。そのような色彩のオーケストラを他に探すなら、ドラクロワまで遡らなければならない。(弟テオへの手紙より)
モンティセリ以外に、ピサロ、セザンヌ、シスレー、モネ、ルノワール、ゴーギャン、シニャックら、印象派の画家たちの絵が展示されていた。
自分的に確認したのは、シスレーとセザンヌが好きで、ルノワールは苦手だ、ということ。
ゴッホはシスレーを「印象派の中で一番控えめで優しい」と言っている。
そう、ボクもシスレーのそういうところが好き。
で、ゴッホは南仏に移動する。
アルルでの制作は、まるで画家の情熱がそのままカンヴァスにあふれ出たかのようだった。彼の画業の中で最も鮮やかかつ強烈な色彩を使い、絵具も厚く盛っている。
テオや友人たちへの手紙には、光に満ちた南仏の風景に制作意欲がかきたてられる様が繰り返しつづられており、作品においても、絵具が乾かないうちに次の絵具を重ねるなど逸る気持ちが表れている。
しかし、精神病の発作によってゴーギャンとの共同生活が終わった後、ファン・ゴッホの作品はまた異なる段階へ進んだ。
画家は自分の進む道を再確認するかのように、エッテン時代と同じくミレーの作品の模写を行い、そのとき手がけた自作を再制作した。
サン=レミやオーヴェール=シュル=オワーズで扱った色彩は、原色を用いながらもいくぶん落ち着いたトーンとなり、筆遣いもまた、同じ向きや長さのタッチを緻密に並べるような、あるいは自在にうねるようなものに変わっている。
このころの手紙には、厚塗りをやめたことを告げ、印象派に出会って灰色を捨てたことへの後悔の気持ちも記されている。しかし創作意欲が消えたわけではなく、オリーヴや糸杉を自分のものにしようとしたり、自分にとって新たな技法であるエッチングに挑戦したりと、ファン・ゴッホは最後まで自分自身の芸術を追い求めていた。
この時期のゴッホの作品としては、『麦畑』が良かったな。
あと、ちょっと『サント=マリ=ド=ラ=メールの風景』、『サン=レミの療養院の庭』、そして、やはり、『糸杉』。
糸杉は、墓場に植えられることが多いらしく、ヨーロッパでは「死の象徴」とされているみたいだけど、そういうイメージもゴッホに影響を与えたかもしれないな。
ということで、ゴッホ展、かなり収穫があった。
まだのヒトは上で出てきた画家たちを軽く予習していくと、よりワクワクする美術展だと思うです。
図録とともに美術展を振り返るシリーズ
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