ネット・ファーザー
現在いろいろ思いながら書いていることも、次の瞬間には過去のことになり、そしてそれは未来に読まれる。
そんなタイムラインを意識しながら、遠い過去に書いた雑文も含めて、「エッセイ蔵」にいろんなエッセイを収納していきます。
=== 以下は2001年2月に個人サイト上に書いた文章です。
=== 角川文庫「人生ピロピロ」にも収録されています。
前略。お元気ですか?
早いもので、あれから約1ヶ月。
まだ実感も湧かないだろうし、立ち直ってもいないだろうけど、少しでも普段の明るいキミに戻れているといいなと思います。
もちろんあのこと以前のキミにそのまま戻れるわけもないとは思うし、まだまだたった1ヶ月、思いっきり偲んでいてあげても欲しいけど、でも、そろそろ「時間くすり」が効いてきて、ちょっとは明るさももとに戻ったころかな、って。勝手な推測ですけど。
ボクはまだ肉親を亡くしたことがないので、本当のことを言えば、キミの深い悲しみはきっとわからない。わかるはずがない。想像力をいろいろ働かせてはみるけど、やっぱりよくわからない。
結局「人を亡くす」というのは本当に個人的な体験だから、誰にもその人の気持ちなんてわからないんだよね。各自が各自の想いで「その人を亡くしたこと」に浸るしかない。
だから中途半端に「わかっているふり」することはしません。
ボクにはその歳でお父さんを亡くしたキミの悲しみはわからない。わかりたいとは思うけど、やっぱりわからない。
逆に言うと、キミにもボクの悲しみはわからない。キミのお父さんを失ってボクがどれだけ悲しんでいるか、キミにもわからない。
でも、キミにはなんとかそれを「伝えたい」と思ってコレを書いています。
ボクはこの1ヶ月、「ここまで忙しいのはさすがのボクも初めてかも」と思うくらい仕事に没頭していました。
どのくらい没頭していたかと言うと、毎日2時間を切る睡眠時間を2週間くらい続けていて、ちょっと押したらすぐ倒れてしまうくらい衰弱していたのに、そんな状態でも「寝られない」くらいは没頭していたんです。
倒れるようにベッドに横になっても「あ、あそこはこうしたらどうだろう!」とすぐ飛び起きて企画書づくりを再開してしまう。
カラダは限界なのに、ベッドに横になってからまた「あ!」と飛び起きる。そんな毎日。
競合で勝ったら大きな仕事、というのもあったけど、なによりも世の中的にとても意義深い仕事で、会社入って初めて「これはどうしても自分でやりたい!」と感じた仕事でもあったんですね。
でも、この忙しさはある意味ラッキーでした。
なにがラッキーかって言うと、忙しすぎて悲しみに立ち止まっているヒマがなかったのです。
ちょうど、お葬式の忙しさが、悲しみで呆然としている近親たちをある意味立ち直らせるのと同じような感じかもしれません。仕事を必死にやっているうちにお父さんの死がボクの中である程度昇華された気がします。
……いや、ラッキーなのかアンラッキーなのか、実はよくわからないんだけど。
なにしろお父さんの思い出にゆっくり浸るヒマすらなかったし。そんなに早く昇華しなくてもいいんだから、もしかしたらアンラッキーなのかもしれない。ま、でも思い出は逃げないから、これからゆっくり浸れるし、いいか……。
忙しいといえば、キミのお父さんも半端じゃない忙しさを抱えてました。
これは同じクライアントを担当していたし、隣の部にいたから他人事でなくわかるんだけど、「まさか冗談だろう」と人から思われてしまうレベルの忙しさでした。
お父さんは大変クレバーな(クレバーすぎるのが弱みになってしまうくらいクレバーな)コピーライターで、賞もいっぱい取っているけど、事はそういうレベルではなく、まさに「天から理不尽が降ってくる」的どしゃぶりの毎日。
しかも、このクライアント(巨大企業)は特異で、うちの営業部と一緒に動けないのです。(キミも広告業界志望ならわかるかもしれないけど)制作の部署の人間が営業も兼ねるという超変則ぶり。
他にもきついクライアントって日本にはいっぱいあると思うけど、営業がつかないつらさを足し算すれば、絶対日本一つらいクライアントだったとボクは断言します。
東京本社に転勤していろんなクライアントの苦労話を聞くけど、はっきり言ってレベルが違います。そのくらいきついところの部長さんをやっていたのです。キミのお父さんは。
あの忙しさの中、キミのお父さんはみんなを励まし、笑顔を振りまいてみんなを慰めていました。
オーバーでもなんでもなく、お父さんがいたから、みんなもキレず、お父さんのために働いていたのだと思います。
ボクはいまでもよく思い出しますが、深夜のプロダクションでクライアントに厳しい言葉を浴びせかけられている最中に、キミのお父さんが微笑みながら現れたときの安堵感。
あぁこれで大丈夫。
お父さんがなんとかしてくれる。
この窮状をあのクレバーさで救ってくれる…。
あの、曇天が一気に晴れるような感じは、一生忘れられません。Here Comes The Sun。まさにそんな感じ。
とはいえ、ボクとキミのお父さんは、仕事面ではその程度の交流でした。
同じクライアントだったし、一緒に会議することも多かったけど、でも同じ部ではなかったし、いつも一緒に行動していたわけではないんです。
でもなぜか、かなり親しかったのも事実です。
それはある意味「親子」的な関係だったからかもしれません。
いや、親子、は言い過ぎかな。実際の娘であるキミに失礼かもしれませんね。
でも、ボクはまぎれもなくキミのお父さんを「ネットの父」と思っていたし、キミのお父さん自体も「ネットの息子」的にボクを見てくれていたと思っています。
コンピューターがまだこんなに普及しなかった10年くらい前。
1990年ころかな。
(※注:世の中的にはコンピューターはまだ全然普及してません。1986年に発売されたMacintosh Plusを使っている人が世の中に数万人いたかどうかって感じだと思う。ちなみにインターネットが普及し始めるのはその5年後の1995年あたりからです)。
すでにお父さんはPCゲームについて本を書いていたくらいコンピューターに詳しかった。
その頃ボクは「超」がつくくらいのアナログ人間。
鉛筆をこよなく愛していて、自分がキーボードを打つようになるなんて思いもしなかったし、どちらかというと嫌悪していたくらいです。
でも、キミのお父さんは、なぜかボクに近寄ってきて、わりとしつこく「コンピューターはいいぞ」「コンピューターをやれよ」と言ってくれたのでした。
他の人でなくてなぜボクなのかはわかりませんが、ボクはそのたびにいかにデジタルが嫌いかを主張して彼を苦笑させていましたっけ。
そんなことが続いたある日、うーんあれはボクが結婚してすぐだったからつまり7年ほど前になるかな。
ボクはお父さんのお薦めのままに、お父さんお薦めの量販店で「Macintosh LC630」を購入したのでした。
そう、結局お父さんの情熱に負けた、という感じ。
メモリーなんて標準で8MBの頃。まだハードディスクが250MBで「すげー!」と言われていた時代です(すげー!)。
で、触ってみると、実に面白いではないですか。
起動画面にイラストを入れたりなんだり、原始的なカスタマイズで遊びながら、しょっちゅうクラッシュしては動転して、キミのお父さんに電話しまくったりしてました。面倒くさかっただろうにすべての質問に優しく答えてくれていました。
で、これまたお父さんのお薦めのままにニフティに入って、BBSを始めました。
記念すべき最初のメール相手も、もちろんお父さん。
出したらすぐ返事が来て、感動したことを覚えています。うわー、メールってスゲーって。
そしたら次は「インターネットやれよ」と薦めるお父さん。
ボクは(いま考えると笑えるのですが)「ええ! だってインターネットって英語でしょ? イヤですよー」と言って、またまた苦笑されていました。
まだモザイクというブラウザが全盛のころで、ネットスケイプも1.0の頃。右上にNのマークが呼吸するように凹凸している頃のことです(知るわけないか)。日本にまだ個人ページなんて数十しかない頃。ベッコアメが営業を始めたころ、かな。
最初は嫌がっていたボクですが、キミのお父さんに散々その魅力について話を聞いていたのがボディブロウのように効いてきた矢先にあの阪神大震災を体験し、インターネットの重要性と可能性にやっと気がつき、ついにインターネットを始めることにしたんです。
お父さんに電話でいろいろ聞きながら、なんとかウェブに繋げ、ちょっと感動しながら初めてメールを書いたのももちろんお父さん宛。これまたすぐ返事をもらいました。
いまでもボクのEudoraの数十万通ある過去受信簿の「一番上」には1995年7月6日にお父さんからいただいたその返事があるのですよ。
それから1ヶ月後、ボクは「さとなおの極私的おいしいページ」という個人ホームページを立ち上げました(いまの『www. さとなお .com』です)。
まだネット創生期と呼んでいい時代でしょう。個人ページなど100くらいしかなかった頃の話です。
超アナログ人間なボクがそんな時代からそんなことをやったのは、すべてキミのお父さんのおかげなのです。
キミのお父さんがいなかったら、絶対ホームページなんか作らなかった。きっといまだにホームページなどやっていなかったと断言できます。
無理矢理この世界に引き込んでくれて、上手に誘導してくれた彼。まさにボクをインターネットという世界に産み落としてくれたネット・ファーザー(一応ゴッド・ファーザーとかけてみたりして)。
それだけでも感謝しすぎてもしたりないくらいに感謝しています。
ボクはインターネットを知ったおかげで、その後の人生がガラリと変わりました。
本を出したり、新聞連載したり、インターネット系の部署に移ったり。
そう。そうやって人生が変わるほど、この世界を楽しんでいます。
でもそれはすべてキミのお父さんのおかげなのです。
キミのお父さんがなぜかボクのそういう資質(資質なんでしょうね、ある種の)を早くから見抜き、無理矢理のように誘導してくれたから、いまのボクがあるのです。
で、誘導してくれただけでなく、お父さんは、ボクのその出来たてほやほやのページを激賞してくれた。
心から誉めてくれた。そして「すごく面白い! 忙しくてもがんばってずっと更新し続けろ!」と言ってくれた。
それがどれだけ励ましになったか。どれだけやる気に火を付けたか。どれだけいまでもボクの支えになっているか。
ボクは、キミのお父さんに誉められ続けたいために、飽きずたゆまず、このページを更新し続けてきた気がするのです。
どんなに忙しくても、どんなに嫌気がさしても、どんなに「こんなページなんかなくなったって誰も悲しまない」なんて無力感に襲われても、お父さんにまた「お、忙しいのにまた更新したな」「がんばってるねぇ」「面白いじゃん!」って言われたいがために更新しつづけてきた気がするのです。
そして「彼に誉められるレベルのものを出し続けたい」というある種の高いハードルに、キミのお父さんをしていた気もしています。
でも、これから、どうすればいいのだろう?
ボクは本当に途方に暮れているのです。
もう彼が読んでくれないなんて・・・。もう彼が誉めてくれないなんて・・・。彼を亡くすまで、そんなこと想像もしなかったよ・・・。
話が長くなっちゃったね。
その後のことをちょっとだけ書いておきます。
キミのお父さんは、それからも要所要所で、ちゃんとボクのページを誉めてくれました(ちゃんと誉めるって、意外と難しい技なんだよ)。
さぬきうどんの紀行文を書いた時も翌朝会社で会ったらすぐ誉めてくれたし、本になったときもすぐ読んで感想をくれた。
それだけじゃなくて、ボクを信じて香川にうどん食べに行ってボク以上に「さぬきうどん信者」になってもくれた。
朝日新聞の連載が始まってからは、毎週感想を話してくれた(たいていは「おもしろい!」とこちらが赤面するくらい大声で誉めてくれました。そういうタイプじゃないのにね。なぜかいつも大きな声で誉めてくれた)。
それらにどれだけボクは勇気づけられたことでしょう。
だから、「娘と会って話を聞いてもらえないか」って、キミの就職相談の相手のひとりに、お父さんがボクを指名してくた時はうれしかったな。
少しは恩返しが出来るかなと思ったから(あまり力になれなかったけど)。
ボクが東京に転勤してデジタル系の部署に移りたいと思っていることを話したときも、なんだかすごく喜んでくれていたんだよ。
キミのお父さんがいなかったらボクがそんな人生を選ぶなんてありえなかったって、お互いに知っていてお互い照れている感じ。
あ、そうそう、ボクのホームページに寄稿もいっぱいしてくれたんだ。
やっぱりお父さんは西海岸が好きなんだね。シスコの記述も生き生きしているし、「ナパの3T」の項なんて、筆が踊っているな・・・。
お父さんは向こうに移住することも考えていたんだって? そこまでお父さんが愛したナパ・バレー、ボクも近いうちに行きたいと思っています。
最後に。
こんなエピソードを知っていますか?
1987年にアカデミーのアーヴィング・タールバーグ賞を受賞したビリー・ワイルダー監督のスピーチなんだけど、ボクはこのエピソードが大好きなんです。川本三郎著「アカデミー賞」(中公新書/中公文庫)から引用してみます。
ジャック・レモンからタールバーグ賞のトロフィーを受け取ったこの老名監督は、何百万人ものファンに感謝すると言ったあと「とりわけウィル・ロジャースに似た名前もわからないアメリカ人の紳士に感謝したい。彼がいなかったらいまの私はない」とこんなエピソードを語った。
ビリー・ワイルダーは1943年にナチス・ドイツを逃れてアメリカに亡命しようとした。しかしメキシコでアメリカへの正式入国許可証がないことがわかった。彼はメキシコのアメリカ領事館へ出頭した。ここでヴィザが降りなかったら彼はドイツに送り返される。それは死を意味する(彼の母親はアウシュヴィッツで死んでいる)。不安な気持で彼は一人のアメリカ人の役人の前に立った。役人は職業は何かと聞いた。ビリー・ワイルダーは「ライト・ムービーズ(映画の脚本を書く)」と答えた。すると役人は「いいのを書くんだ」といって入国許可証をくれた。
「それ以来、私はいい作品を書くように努力してきた。あの名前もわからないアメリカ人のおかげでいまの私がいる。彼に感謝したい」。授賞式の会場じゅうが大きな感動の拍手に包まれた。
巨匠ビリー・ワイルダーにボク自身を重ねる傲慢さはこの際置いておいて(そんなの言い訳するまでもないとは思うけど)、このビリー・ワイルダーの気持ちに近いものをボクは感じています。
お父さんはボクにこう言ってくれた。
「すごく面白い! 忙しくてもがんばってずっと更新し続けろ!」
それ以来、ボクは忙しくてもがんばって更新し続けてきた。
キミのお父さんのおかげで(まだまだ発展途上ながらも)いまのボクがある。
それだけは間違いない。
本当に、ありがとう。ありがとう。
キミにもらったメールの返事にも書いたけど、ボクはお葬式でキミを見かけて、とてもうれしかった。
うまく説明できないけど、お父さんの「血」がキミの中に流れているのが、とってもうれしかった。その「血」が流れている人が、ちゃんと存在していることが、わけもなくうれしかった。
その「血」を、大事に、ちゃんと自愛してね。
ボクはキミのお父さんを裏切らないためにも、これからもサイトを成長させ続けようと思います。
お父さんの「血」を、サイトの中に、途切れず流し続けていこうと思います。
だって、ネットの息子だもん。
「血」が繋がった同士、仲良く、しようね。
これからもよろしく。
そして、元気で。
2001年2月のあたたかい日に。佐藤尚之。