昨日の「ふつう」をまだとても愛しているけれど、今日の自分はこれで完璧な自分だ
ちょっと震える note を読んだ。
ボクと同じアニサキス・アレルギーになり、魚の味見も試食もできなくなって鮨職人を辞めた方の note。
その方の、いまの心のありようが丁寧に書いてある。
最初は「同病だから」と読み始めた。
大変だなぁ、大変だよなぁ、と読み始めた。
でも、途中からそんなことは忘れてしまい、この方が辿りついた「心のありよう」にちょっと感動しながら読み進めていた。
一度読み終わったらすぐ最初に戻った。
そうやって何度か読んだ。
そして震えた。
この行き止まりだらけの暗い迷路に、ボクには見えてなかったドアがあったぞ、と。
そう、きっとこの手触りは、ドアだ。
あぁ、ここにドアがあったのか。
世界や自分が壊れて、昨日の「ふつう」が、今日の「ふつう」にならなかったとしても、今日の自分は、これで完璧な自分だ。
昨日の「ふつう」とは違うけれど、これはこれで今日の完璧な自分だ。
変化が起きたあと、変わらなかった自分があることも確かで。それが今日の自分ならば、その変わらなかった自分で、今日の自分は完璧だと考ればいい。
まずは自分が完璧だと思っていることが、とても大切。「みなさん、わーわー言うてますけど、俺、欠けてないから大丈夫なんです」と思いながら、欠けている認定をしてこない人と付き合う。それが自分を生きやすくさせる。
「魚を食べられなくなった今日の自分も、それはそれで完璧な自分だ」と考え、評価や感情を入れることなく「それも、ただの変化だもんねー」受け入れること。
基準を変えれば腐敗も発酵も、どちらにしても、何かの役にたつことには変わりがない。
どっちにしても、ただの変化じゃん。
「今日の僕はそう思ってるのね。わかったよー」と了解しながら、淡々と日々を過ごしていく。
ボクは、心の深いところで「自分が壊れて、欠けてしまったこと」を認められていないのだろう。
あんなに長く愛していたことを失ってしまったことを、まだ受け入れてもいないのだろう。
もしかしたら、恥じてすらいるのだろう。
そして、そう考えてしまう自分のことも、なかなかそこから抜け出られない自分のことも、恥じているのだろう。
でも、そういう自分も、完璧な自分だ。
昨日の「ふつう」をまだとても愛しているし、そこからなかなか抜け出られないけれど、そうだとしても、今日の自分は、これで完璧な自分だ。
あー、受け入れられないんだー、恥じてるんだー、今日の僕はそう思ってるのねー、わかったよー、で、いい。
ただ、対話すればいい。
こういう風に、薄い言葉でこの note をまとめてしまうには、実はまだ早い。
まだこのドアに出会ったばかりだし、開けてもいない。
もっと自分に落として、ゆっくり消化して、何度も自主練して、ちゃんと自分の言葉にしてから書いた方が本当はいい。
でも、どうやらここにドアがあるらしい。
そのことだけは記録しておきたい。
そして。
たぶんこのドアは、これからどんどん老人になり、昨日の「ふつう」を失い続けていく自分にとっても、いい「入口」になる。
そんな確信もあるので、そのことも記録しておきたい。
という、ごくごく独り言のような一文でした。
鮨職人りょうすけさん、もう鮨職人じゃないのだろうけど、どうもありがとうございました。
とても助かりました。