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闘アレ生活(12) 〜アレルギーになって良かったことを数えてみる篇

57歳のある日、いままでアレルギーなどひとつもなかったボクが、突然アニサキス・アレルギーになった。そして、ほとんどすべての魚介類が食べられなくなった。いまは魚系のダシやエキスまで避けている。
そういう生活とはいったいどういう感じなのか、ちょっとだけリアルに知ってもらうために、ちょぼちょぼ書いてくシリーズです。
暗くなる話も多いけど、リアルに知ってもらうのが目的なので、申し訳ありませんがご理解ください。
「闘アレ生活」の過去ログや他記事はこちら


何度も書いているが、魚介類もダシもダメというアレルギーをもつボクにとって、日本の秋冬は美味しそすぎて地獄の苦しみである。

しかも、美味しいものを食べることに命を賭けてきたボクからするとこれ以上の理不尽はない。ひたすらつらい。

そのうえ、いろんな要素を毎日に散りばめて気を紛らわそうとするのだが、毎日2回ずつリマインドされてしまう。


これがどういう状態かというと、簡単に言うとこんな感じだ。

手痛い振られ方をした恋人に、もうつらいから絶対会いたくないのに、1日に二度ほど必ず会ってしまう。


これ、つらくない?w

もうホント、忘れたい。
彼女のことを考えたら気が狂いそうになるから忘れる努力をし続けている。
なのに1日に二度ほど、必ずその元恋人に会ってしまうのである。


・・・まぁでも、そんなことを嘆いていても現実は変わらない。

今日は「自分への言い聞かせ」を書いてみたいと思う。

つまり「つらいけどさ、良いこともいろいろあるよね」と、自分に言い聞かせて生きているわけなのだけど、それをいくつか紹介してみたい。


・ヒトの「不自由」に対しての思いやりが格段に深くなった


これは良かったこと。

食物アレルギーで苦しんでいるご同輩たちに対する思いやりはもちろん、手足が不自由とか、高齢で不自由とか、病気で不自由とか、子育てで不自由とか・・・もう「不自由」を耐え忍んでいるすべてのヒトに対して、思いやりが深くなった

逆に言うと、いままで「わかっていたつもり」ではあったけど、実は「全然わかっていなかった」ということだ。

みんな、こんなに大変だったのね・・・。

しかも、「いままで普通に出来ていたことが出来なくなる」ということのつらさに共鳴している

ちょっとしたことにもすぐ共鳴して泣きそうになる。
たとえば、いままで自由に遊んでいた女性が、子育てで身動きとれなくなっちゃった、というようなことにも、「いやぁ、つらいよねぇ」とか共鳴して泣きそうになるw

そう、みんな何かしら「不自由」を抱えて生きている。
自分が(自分にとっては超がつくほどの)不自由を抱えてみて、より深くわかった。

これは、良かったことだ。


・検査数値的にはとても健康になった


血液検査の数値が、あらゆる項目にわたって正常値になった。
これも良かったことだ。

食べるものをいちいち調べるようになったことも大きいけど、物理的に「野菜を食べることが非常に増えた」のが大きいんだろうと思っている。

あ、あと、アレルギーと闘うための1000日チャレンジの一環で、毎朝3キロ走っているのも大きいかな。

また、〆に蕎麦食べるとかラーメン食べるとかも不可能になったので、その辺も意外と積み重なっているのだろう。

一方で、酒量は増えている。
γ-GTPの数値が赤ちゃん並みに下がったのが不思議なくらい、飲んでいる。

家族からは心配される。
でも飲まずにはやってられない。

とはいえ、全般的には健康になったな。
これは良かったことだ。


・まだ生きている、という事実


これも、紛れもなく良かったこと。

アニサキス・アレルギーのアナフィラキシー・ショックであの時死んでいてもおかしくなかったからね。

つまり、アレルギーというつらいお土産はもらってしまったが、とりあえず生きてはいる。こうして普通に生きられている。

これについては感謝である。

そして、あのときアレルギーになって生活を強制的に変化させてくれなければ、ボクはいまごろやっぱり死んでいたんじゃないか、とも思う。

つまり、あのころの多忙かつ不摂生な生活を、このアレルギーは改めさせてくれ、余命を延ばしてくれた

これは確実に、良かったことだ。


・それでも食べ物の選択肢は無限にある


これは良かったというか、恵まれていること、かな。

どこかの小さな島に生きていて、魚なしには生きられない環境だったら、とてつもなく苦難の道だっただろう。

でも、日本は、特にいまボクが住んでいる東京は、食べ物の選択肢が本当に無限にある

大好物を奪われはしたが、そして魚やダシがNGだと食べられる店が極端に少なくなるが、でも、選択肢は無限にある。

これは感謝すべきことだろう。

不幸中の幸いだ。
これは良かったこと。


・失うものがあれば、必ず得るものがある


ボクの脳みその中のスペースが空いた。

「食べもの」や「レストラン」の情報で占められていた記憶領域が空いた。かなり目一杯詰まっていたのだけど、スカッと空いた。

つまり、ハードディスクの使用可能容量が一気に増えた、ということだ。

これは、この歳になっていきなり「新しいことをどんどん入れていける領域が出来た」ということに等しい。

また、食べることに費やしていた情熱や時間も、ぽっかり空いた

これは「新しいことを受け入れる余裕ができた」ということだ。

そう。
失うものがあれば、きっと必ず得るものがある。

現に、食関係の友人が減り(食べに行くことがなくなったから仕方がない)、いままでつきあっていないタイプの友人が出来始めている。

きっと新たな何かを得始めている。

うん、これは良かったこと。
ボクの人生にどういう新しいことが入ってくるのか、楽しみだ。


・家族や友人の有り難さを改めて感じられている


わりと感謝を感じるタイプではある。
でも、改めて、感謝の心が強くなった。

これは良かったことだ。

家族や友人たちが、何かと気を遣ってくれる。
気を遣っていないように見せながら、気を遣ってくれている(ちゃんと気づいています。ありがとう)。

いつも、心の中で頭を下げている。
あんまり「ありがとう」って言い過ぎると恐縮されちゃうので毎回は言ってないけど、でも、本当に有り難いと思ってる。

いろんな友人と会うたびに、つまり毎日・毎時間・毎分のように、そうやって「感謝」を感じ続けていることが、自分の性格にかなり影響を与えてきていると思う。

「ありがたいな」「ありがとうね」、そういう感謝の心が頻繁にリマインドされるからだ。

そのせいか、なんか、我ながら穏やかになったな、と思う。

(加齢もあるかもだけど、加齢で怒りっぽくなるオッサンも多いので、やっぱり影響を受けているんだと思う)

人生に対してどんどん謙虚になって行っている。

これは、きっと、とても良かったことだ。


リアルに会っている人も、ネットでつながっている人も、みんな、いつも、本当にありがとう。



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さとなお(佐藤尚之)
古めの喫茶店(ただし禁煙)で文章を書くのが好きです。いただいたサポートは美味しいコーヒー代に使わせていただき、ゆっくりと文章を練りたいと思います。ありがとうございます。