金木犀と猫
その猫は、いつからか庭に現れるようになった。
体を覆う、長い毛はオレンジ色に光り、胸のあたりからうねるように柔らかな胸毛を蓄えている
見据えたような眼差しで、もの言わぬ姿はなんとも言えない美しさと、風格があった。
猫は、私に何を訴えるわけでもなく、
金木犀の木の根元で、一日のほとんどを過ごしていた
互いに距離を保ったまま、私は庭の手入れをしたり、猫は猫で、毛づくろいをしたりゆっくりとした時間を過ごした
猫は、前足が悪かった
内に折れ曲がった右手は細く固まったままだったが、体を支える左手は太くて力強く、対照的だった。
何度か、餌を与えようかとも考えたが、
その猫が「情け無用」と言ってるかのようで
私はただ、金木犀の根元に佇むその猫を、相変わらず距離を保ったまま眺めるだけの日々を過ごしていた
仕事の帰り道、商店街で買い物を済ませ歩いていると、体を小刻みにはねさせながら、ゴミにかけられたカラス避けの網を必死に掻く、薄汚れた猫がいた
あの猫だった
私は「あっ」と声をあげた
猫は振り返り、私を見ると、走り去ってしまった
私は、さっき行ったばかりの商店街に戻っていた
スーパーのペットコーナーに行き、カゴいっぱいに猫の餌を投げ込んだ
私は、私の知らない、猫の姿を見て勝手に傷つき、勝手に哀れんでいた
あの猫は、雄だからと、水色の餌入れまで手を伸ばしたが、プラスチックの餌入れはあの猫には相応しくない気がして棚に戻した
次の日の朝、猫のために、染付の深鉢にたっぷりの餌と水を用意し金木犀の根元に置いて、猫が現れるのを待った
お腹を空かせたあの猫が、喜んで餌を食べる姿を想像し、心を踊らせていたが
私の期待をよそに、猫は現れることはなかった
その日から毎日、新しい餌と水を用意し、猫を待つ日が続いた
心地よい風が吹き金木犀の葉を揺らし、微かな香りが漂った
見上げると、主の居ない金木犀に、蕾を見つけた
私は、金木犀の根元に寝そべった
この場所が猫のお気に入りだったことがわかる気がした
静かな庭に虫の声が聞こえる
黄色いかたい蕾がオレンジ色に変わっていく
猫の代わりに、金木犀を眺めるのが日課になった
私は、餌を置くのをやめた
日に日に膨らむ蕾は小さな花が十字に開いていく
満開になった金木犀の花の色は、オレンジの毛皮のあの猫に似ていると思った
静かな雨が降り続いた
金木犀の花弁が雨に濡れ、花色が一層映えた
長い雨のせいで
枝は重く垂れ下がり少しずつ花を落としていった
真夜中に目が覚め、窓から庭を眺めた
雨は止んでいた
薄い月明かりが庭を照らしている
金木犀は葉だけを残し、落ちた花で辺りはオレンジ色だ
美しい光景だった
かすかに何かが動いた
私は「あっ」と声をあげ玄関の外に裸足のまま飛び出した
金木犀の根元にはあの猫がいた
猫は、太く長い尾を立て、不自由な前足のせいで、上下に揺れながらゆっくりと近づいてくる
私は泣いていた
猫は私の足元にたどり着くと、体をすり寄せた
私は手を伸ばし、猫を抱きしめた
猫の長い毛は金木犀の香りがした
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