花山多佳子歌集『木香薔薇』の時間
時間とは何か。時間は時計で計測することができる一方向、一定速度の運動のことなのか。時差はあるが、一秒、一分、一時間の長さは世界共通だ。そうではない。一人ひとりに固有の時間がある。それぞれの死に向かう一直線の時間だ。それだけではない。意識の在り方で、伸びちぢみしたり、逆行する時間もあるのではないか。
自分が感じている時間と、他者が感じている時間はちがう。となりにいても、それは見えない。けれども、短歌を通じてならば、他者の時間を垣間見ることができるのではないか。
花山多佳子歌集『木香薔薇』(2006年、砂子屋書房)の時間を見ていく。
まずは、2015年の塔の全国大会での、吉川宏志氏の発言を引用する。
「娘にも」の「に」は格助詞だろう。辞書(学研現代新国語辞典改訂第五版 金田一春彦・金田一秀穂編)によると、「動作の向けられる(あるいは動作を受ける)相手を表す。」とある。
用例を見てみると、「犬が人にかみつく」「強敵に挑む」「駅で友人に会った」「友人に手紙を書く」などが挙げられている。
「娘にも」の背後には、「テレビはわたしに壊れている」があるだろう。
「壊れる」は、直さない限りは壊れているという状態だ。私が見ようとすると壊れているけど、娘が操作すると直るということもない。
木村敏『時間と自己』(1982年、中公新書)に、「もの」と「こと」の違いが説明されている。
「二つのもの」という箇所と、吉川氏の「テレビの二つある」という発言に符合がある。
テレビは「もの」だが、「テレビが壊れるということ」、テレビが壊れている時間は「こと」である。
そして木村敏は「ことがこととして成立するためには、私が主観としてそこに立ち会っているということが必要である。」と書いている。
テレビが壊れる前、テレビが正常に機能している間は、意識の中心は、テレビに映っている内容であって、「もの」としてのテレビの存在感は希薄だった。テレビはその機能を失ってはじめて、テレビ自体として意識の対象になった。
テレビが正常に機能している間は、主体と娘の視線はテレビに、テレビに映し出されるものに向いていた。その限りにおいて、主体と娘は、自他未分の時間にいたのだろう。
テレビが壊れることで、今まで見ていたものが「テレビ」だということが立ち現れた。同様に、テレビの方向に向いていた視線が、主体と娘の互いに向き合うことになった。
そこで、主体の自己と、娘の自己が再発見されたのではないだろうか。それを受けての、「わたしに」壊れているテレビであり、「娘にも」壊れているテレビという表現なのではないか。
そこにあるのは、テレビが壊れている時間という「こと」である。
露出した乾電池は、まさにむきだしの物質性を露呈している。私たちは、普段時計を見るとき、時計そのものを見ることはどれくらいあるだろうか。多くの場合、時計そのものではなく、時計が示す時間を見ている。これは、構造としては、テレビ自体ではなく、テレビに映る内容を見ていることと似ている。
裏がえされることで、時計の帯びる概念性が後退し、物体性をとりもどす。
目覚まし時計が示す時間とはどのようなものか。目覚まし時計は、起きなければならない時間に起きるための機械だ。起きる時間は、出勤や通学や、家族の朝食づくりなど、社会生活に参加するために決定される。社会での役割を維持するための装置ともいえる。
以下木村敏『時間と自己』より引用する。
目覚まし時計を裏がえすのと、似た行動として、夜、鏡に布をかぶせることが思いあたる。目覚まし時計が発する圧を、低減するような感じがある。寝るにあたって、時計を裏がえすことで、社会での役割を降りることは理にかなっている。自分の個の時間に沈んでいく儀式のようにも思える。
「陸橋のたもとのバス停に立つてゐるわたし」まで読んで、バス停に立っている人影を思い描く。人影は作中主体だ。「わたしに向かつて距離をちぢめる」と続きを読んで、分からなくなる。「距離をちぢめる」の主語は誰なのか。
日本語では、主語が省略されることは多くある。だから、省略された主語が、他の人間かもしれないし、バスなどの乗り物や動植物という可能性もある。けれども、「に向かつて」「距離をちぢめる」という表現には、省略された主語の方向性を持った意志の力を感じる。省略された主語は、どうやら目を持っていて、「わたし」の姿をとらえ、意志を持って、その方向に移動している感じがある。
そこで、省略された主語も、〈わたし〉なのだと読んでみる。バス停にいるのは、数分後の自分の姿だ。残像の未来バージョンということになろうか。バス停に向かっているとき、目的地としてバス停をイメージするだけでなく、バス停にいる自分をありありとイメージするのだ。
短歌の中に出てくる「わたし」はどんな存在だろうか。「わたし」は動詞「向かう」の目的語になっている。だから、「わたし」は外から眺められる。バス停や陸橋と並列な外在的なものだ。他者性を帯びた「わたし」といえる。
〈わたし〉が「わたし」であることは自明なことではない。〈わたし〉が「わたし」になるまでに、時間差がある。
一首目。餅つきの列に並んでいるあいだに、人々がすごいはやさで老化しているような印象をもった。
同じ団地に住んでいても生活スタイルが異なれば、普段は顔を合わせない人が多い。見かけても、ある程度の距離で挨拶するだけの人も多いだろう。餅つきの列にならぶことで、まざまざと顔をみることになったのだろう。一年ぶり、何年ぶりということになる。
そして、餅つきイベントの雰囲気自体は、毎年似ているのではないか。団地ということで、単身世帯というより定住する世帯が多いだろうし、メンバーもだいたい同じだろう。四丁目という限定がいい。そのため、今年の列が、去年の列につながっているような感じがする。いわば、餅つきイベントにだけ固有の時間があって、十五年前の列から今日の列までが連綿とつながっている。たちまちに人々が老けていくのも無理はない。
二首目も、その瞬間に、花の色が白からピンクに変化したような感じがする。実際には、角の所で、植えられている山茶花の種類が変わったのだろう。
さらに、木村敏『時間と自己』から引用する。
ここで、試みに、(わたしが)という主語を追加してみる。
山茶花の咲く垣に沿ひ(わたしが)曲がるときいつせいに花のいろが変りぬ
このように、主語を明確化すると、時間の流れの不思議さが解消されてしまう。
短歌には、定型という絶対的な制約がある。その制約により、主語が不明確になることが多い。しかし、「こと」が自分の側で起こっているのか、景色の側で起こっているのか、不明確になることは、実は、実際の感覚に近い。散文で自由に記述する際、主語が明確になることで、切り落とされてしまう。一方、短歌ではその不自由さゆえに、逆説的に、実際の感覚が温存されやすい。
買い物をしている時点では、意識のなかで、大根は何らかの献立の一部として組み込まれていたはずだ。それは、複数ある大根のなかから選ぶにあたっては、色つやや形のよさにも目を配ったかもしれないが、相対的な比較である。「これこそは」という感じではないだろう。
帰宅して、買ったはずの大根がないことに気づいたとき、すなわち、喪失によって、大根の存在の変容が起こった。探しているときの意識のなかで、大根の色・形はまざまざと反芻されたに違いない。そのときの大根は、相対的な大根ではなく、絶対的な大根である。
ところで、人間には、軽微な落とし物を、落とし主の目に触れやすいように置きなおすという習性がある。片手袋が低いブロック塀の上に置かれていたり、フェンスにハンカチが差し込まれていたり、自転車の鍵が歩道の高くなっている部分に置かれたりしているのを見かける。
果たして、大根は、夜の電柱に立てかけてあった。意識のなかで思い描いていた大根と、実体の大根の重なりが起こる。大根の存在は、いつも通る道の風景さえも一変させたにちがいない。街頭の光に照らされた大根のしろさを想像したい。電柱に立てかけたのは、見つけやすいだけでなく、車にひかれたらしのびないという配慮にもよるだろう。
一首に描かれていたのは、大根の存在の変容ではないか。大根の側で起こったことのようでもあるし、作中主体の側で起こったことのようでもある。夜の電柱で発見したのは、自分自身だとまで言ってしまうと言いすぎだろうか。
明るむの主語は何だろうか。明るむということが、風景と「わたし」のどちらともつかないあわいで起こっている感じがある。
河野裕子の葉桜についての文章とともに鑑賞したい。
桜は一気に咲いて、一気に散ってしまう。冬から春の急激な変化には、毎年参ってしまう。生から死に続く逃れられない一直線の時間を思い知らされて、精神的に息が苦しい。
葉桜のすき間がある感じに、私は救われてる。ほっとする。横道があって、空間的に光がさして、明るむのだけれど、時間の横道のようなものが感じられてこの歌がすきだ。桜が咲いて、散った後の余白のような時間が感じられる。
日の出という駅なら、ゆりかもめ線にあるようだが、日没という駅はなさそうだ。駅名は謎のまま過ぎてしまった。別の駅名に聞こえたのではなく、場所を通知するはずの、アナウンスが、時を通知しているように聞こえた。場所と時間という次元の異なるものが置換されてしまった。
鉄道と時間との類似点を気づかされる。速度を変えたり、いくつもの線が並行しているところだ。
時間と場所は別の概念だが、太古ではもっともやもやと混じり合っていたのかもしれないとも思った。
洗面所からカレンダーのある部屋までの一切の記憶がない。それほどに頭を占めていたのは、時間のことではないだろうか。気がかりな予定まで、あとどれだけ時間があるのか、歯みがきなど無心になる作業をするとつい無意識のまま、時間のことを考えてしまう。
これらの歌には、共通して、未来がはっきりしたかたちをとって主体の意識に入り込んでいる。
一首目。ボールの軌跡が見えるのは、これまでの経験をもとに、いわば体感的に物理法則を映像化しているのだろうか。それは、経験がつくる未来映像といえるだろうか。
二首目には、三つの時点がでてくる。「今」と「明日」と「一週間後」だ。一週間後から明日を遠い過去と振り返る一方、今から明日を予期して悩む。
経験としては、過ぎてしまえば、どうでもよくなることが分かる。分かったうえでも今はそのことがすべてのように気に病んでしまう。二つの意識が拮抗している。一週間後の自分に今の自分が説得され切っていない。
三首目。「靴ぬぎて投げる」瞬間と、同じ鮮やかさで雨のなか走っている今がある。「頭」という語の前後で、時間が切り替わっている。イメージする頭と、肉体の突端として空から雨滴を受ける頭が、拮抗している。
この歌は、先ほどの、「一週間のちには遠い過去となる」という意識の持ち方と類似している。このような今を回想することを予期する意識は何に由来するのだろうか。
このことは、短歌をつくる、歌集をまとめるという作業によって得られる時間感覚ではないだろうか。短歌によって、時間というものが、本というものとして手で触れるものに変換される。短歌にすることで、できる時間というものもあるだろう。
このような今を回想する意識については、森岡貞香の影響もあるのではないか。
短歌を読むことは、他者の時間を感じることである。読んでいる時間は、自分の時間にもなる。
人は自分の時間しか生きられない。けれども、歌集を開けば、他者の時間に触れることができる。自分の時間を生きるとは、自分が自分であることだ。それが、とても苦しい時がある。それを救ってくれるのが、他者の時間だ。
※塔2024年7月号に掲載いただいた原稿を、一部修正しました。
ご批評感謝いたします。