岩尾淳子『岸』より

電車から降りたわたしを坐らせる海にいちばん近い木の椅子 岩尾淳子

『岸』

 私がわたしを座らせるのだとしたら、ものすごく意志がはっきりした能動的な歌だ。だけど、一読の印象は、そうではなく、なにも考えずに椅子に吸い寄せられたような感じがする。
 なぜか。主語が明記されていないことで、椅子がわたしを誘惑して座らせたという余地が残されているからか。いや、もっとふんわりと読みたい。海とか、あたり全体をつつむ陽のひかりだとか。

肩をだし音楽かけて浜にいた耳のきれいな若い人たち 岩尾淳子

『岸』

 若者たちが、砂浜でパーティーをしている。
 顔はメイクする。日頃は、日焼け止めを塗ったり、化粧水を塗ったり、ケアする。胸も、美しく見える水着をつける。
 しかし、耳はどうだろうか。掃除はするけども、審美的なケアはあまりしないのではないか。ファンデーションや化粧水は塗らないのでは。福耳とは言うけど、耳の美しさはあまり意識にのぼらない気がする。目や瞼の形状がミリ単位の工夫の的となることと対照的である。
 そういう意識の外にある耳のうつくしさを、外側から作者が見ているのが、いいなぁと思った。