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私の東京物語

スカイツリー。
『東京と言えば、やはりここでしょう』と言う孫娘に誘われて登塔をすることになった。
 世界で1番高いこの塔は、足元は三角形、しだいに円錐にかわり、すらりと伸びて地上に現れ出る。見る方向によって『そり』と『むくり』を見せるという姿は、イブニングドレスを着た貴婦人のようだ。電波塔の役目が大目的で造られたというのに、ときどきドレスの色を変えて、時世に合わせたメッセージを送ってくれるという優しい塔である。

 スカイツリーを中心にして、足元につくられた
5階建ての巨大なビルは多彩な施設と店舗で埋め尽くされている。かつてそこにあった周辺の町々をかかえこんでいるのだろう。ビル全体をスカイツリータウンと呼び、1階をソラマチ商店街と言うそうな。
 4階から一気に350メートル上の展望デッキに昇る。エレベーターを降りると前方に富士山がくっきりと見えた。はっとして眺める。東に薄紫にけむるのは、南アルプスか。埼玉をも含む70キロ先までの展望は、手前のビルで埋め尽くされ、果ては白い砂漠のようだ。
 池袋、新宿、秋葉原、六本木、品川、お台場あたりは巨大な角柱を束にして立てたように高層ビルで膨れ上がっている。
 幾つもの橋を抱え、街中を悠然と流れつつ
東京湾に注ぐ隅田川。悠久の時を経て今も変わらぬこの川は、街の象徴のようである。
 浅草近くの吾妻橋から東に向かって続く川岸の桜並木が目にはいる。かつての戦禍に巻き込まれたが、その後、住民たちによって補植され、育てられたという、あの桜ではないか。立派な姿になってじっと川面を上ずつ春を待っていた。


 昭和20年、東京は1月、2月、3月の大空襲で
下町のほとんどが焼け野原になり、一挙に死傷者12万人が出た。
続いて4月13日、B29 170機の
襲来を受け、それまでかろうじて残っていた
山の手の町々が焼きつくされた。次の大空襲は
5月25日であったが、これで東京の大半を焼け、壊滅状態となる。
 その年の夏、広島、長崎に原子爆弾が投下、
炸裂、世界に類を見ない大惨事となり、
第二次世界大戦はやっと終結した。
70年前のことである。

 私は、昭和12年、新宿区柏木1丁目で生まれ、
6歳までそこで過ごした。
戦況が悪化し、
新宿など、家の密集地帯は爆撃の標的にされるといい、強制疎開で家が壊された。子供だけでも
先に疎開をと言うことで、姉と2人、母方祖父母の住む亀岡に来たのは昭和19年のことである。両親をはじめ、家族たちは埼玉の田舎に一時疎開し、命だけは助かった。

 

しかし、終戦の直前、心臓の悪かった父が亡くなった。

玉音放送を聴き、極度に緊迫した日常が始まる。アメリカ兵が明日にも攻め入ってくるというような風評に人々は脅えた。
 

『今日はあって明日ない命』

と、不安に張り詰めた祖父母の家族は、私たち姉妹に父の死を知らせようとはしなかった。私は、それでも大人たちの織りなす複雑な空気のなかからそれとなく感じて
『お父さんは死なはったの?』
と、そっと姉に聞く。
『今、言わんとき』ときっぱりとたしなめる姉の言葉に、なぜか触れてはいけないことだと
感じて、それ以降、問うことはしなかった。


 今、眼下に新宿を見ている。
 戦争の時代に生まれ、翻弄された者として
『二度と戦争しない』という平和憲法をどれほど大切に思っていることか。

 世界情勢にまるで無知な私であるが、憲法改正の手続きを定めた96条を変えようという声を
聞き漏らすことができない。
 国会では、自衛隊の集団的自衛権の行使を認めさせようとする風が吹いている。そのようなことになれば、海外における武力行使が拡大し、ひょっとして戦争に巻き込まれるかもしれない。いずれは、自衛隊を国内外ともに認めた『国防軍にしよう』という目論見ではないかと心配になる。
改正が困難なら憲法解釈の見直しなどと、姑息的な考えはやめてほしい。

『私たちの国には平和憲法があります』と明言し、突き進む勇気を持った政治をして欲しいと思う。

 決して平和憲法をいじくりまわしてはいけないと考えつつ、父が死んでも悲しむ隙間さえなかった少女時代を思い出す。スカイツリーの展望デッキから、しげしげと新宿を見たせいかもしれない。

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