悲しみと怒りの感情
私は怒らない
粗末に扱われたり、攻撃をされてもただ一人で耐える。見かねた友人達には
いつも「お人よしが過ぎる」とか「怒らないとやられっぱなし)などとアドバイスをもらう。
私は悲しんでいないわけではない。ただ、
怒ることには疲れ果て、怒りの感情を持つことに蓋をした。
悲しみがあり、理解されない苦しさから怒りへと変化していくと言うけれど、理解される事を多分諦めた。理解されたいという気持ちは、私を苦しめるからだ。
求めなくても理解してくれる人はいる。
ただ、理解されたいと私が思う人から理解されない時、悲しみを感じるから、誰に対しても「理解されたい」をもう持たない事にした。
そうすれば、傷つくことも悲しむこともない。
そうやって、私は、自分の心を守ってきた。
でも、たまに出会ってしまう。
分かって欲しい。理解して欲しいと感じる人に。
心はコントロールしようとしても、押さえ込んだ感情は形を変えて、私を歪にする。
感じるままに心を許さないのは、染みついた癖のようなもので、誰もそれを咎めたりはしないのかもしれない。
「感じる」というのは、喜びだけでなく、悲しみ、苦しみ、痛みも受け入れる事で、それはひどく私を消耗させる。
それでも「感じる」事を拒んでみたところで、それは、別の形で私を困らせる。心というのはやっかいだな…
一緒に暮らしている犬は、いつも素直で、真っ直ぐに気持ちをぶつけてくる。
単純で分かりやすく、感じた事をそのまま伝えてくる。
私は、それを見るたび
「それで良いのだな」と思う。
受け入れる側に準備がない場合に、悲しむ結果となったとしても。それを受け止めるのも私の役目。逃げたところで、逃してはもらえない。
変な角度から歪に打ち込まれたクギのようで。
真っ直ぐ打たれたクギは、真っ直ぐに抜けるのにね
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