新年早々、スマホを落とした話。
あっという間に1月が終わりました。
写真は、私が住む街・藤沢の白旗神社で行われているどんど焼きの様子。ただ、今年は慌ただしくしていたらどんど焼きの時間に間に合わなくて(行ったら終わっていました…)、写真は去年のものです。
「あっという間に終わった」を、もう少し正確にいうと、決して「何もしていなかった」のではなくて、毎日は予定もコンテンツもギュウギュウの密度の濃い日々。この記事によると、「充実した毎日を送っていると、時間の流れを早く感じる」ようなので、充実していたのだと思います。
さて、2020年2回目の更新は表題のとおり。
「新年早々、スマホを落としました」という話です。
この一言で終わってしまうのも書きごたえがないので、もう少し振り返ってみることにします。
まず、スマホを落としたのは1月6日(月)。仕事初めの日の朝です。
いつものように「上野東京ライン」のグリーン車に乗り、いつものように座って、瞑想アプリをセットしてしばし瞑想の時間(背筋を立てて呼吸に集中すると、意外と電車でも瞑想できます)。
でも、時間を知らせる通知が来ても、「もう少し瞑想したいな」と感じて続けているうちに、いつの間にか寝てしまったようです。
気づいた時には、東京駅。
「降りなきゃ!」と思って慌てて起きて、電車を降りた時に、どうやらスマホを落としたようです。
その事実に気づいたのは、改札から出ようとした時。スマホのケースに「定期券」を入れていたので、定期券がないと改札から出ることすらできないわけです。
改札に着く頃には、電車は発車した後だったので、今から取りに行くわけにもいきません。というか、「午前中のうちに初校ゲラを戻します」とデザイナーさんに連絡していたので、あまり時間的な余裕もありませんでした。
改札で事情を話したところ、「そういうことであれば」と、何の確認もなく、お金を支払うこともなく、改札から出してくれました。そして、「11時頃この電話番号にかけてみてください。落とし物として届いていたら何かわかるかもしれません」と、落とし物センターの連絡先を教えてくれました(AM8:40頃)。
駅員さん、とても親切です。
そして慣れています。
その後、会社に着き、急いでクレジットカード(スマホケースに入っていたもの)と、Apple Payを止めました。iPadから「iPhoneを探す」で見てみると、上野東京ラインの線路に沿って、順調に北上している様子。
駅員さんに教えてもらった「落とし物センター」に電話をしてみたら、「走行中の電車の捜索はできないんですよね」とのこと。
駅員さんを含めて、誰かが見つけて届けてくれたものが、「落とし物」として管理されるらしいです。
ちなみに、クレジットカードは電話で、Apple Payはパソコン(またはiPad)で止められますが、定期券の発行はPASMOまたはSuicaを発行した駅でないとできない様子。あと、PASMOのオートチャージ機能は駅(発行した駅でなくても可)に行かなければ止められないとのこと(調べたらやり方が出てきます)。
でも、駅まで行く余裕がなかったので、「ええいままよ」。
ちょっと落ち着かない気持ちはありますが、時間は待ってはくれません。急いで初校ゲラのチェックを進めます。
ギュウギュウのスケジュールで動いていると、「スマホを落とす」という、おそらく人生で何度も経験することのない出来事すら十分に味わう余裕がないようです。
さて、iPadの「iPhoneを探す」の画面でiPhoneの場所を横目で確認しながら、仕事を進めます。
いつ見ても、きれいに線路上。まだ誰も見つけてくれていないようです。
そして、仕事がひと段落したのが11時頃。
私のiPhoneは依然として線路の上。
電車は終点の高崎駅に着き、その後、新前橋の車両基地に止まっている様子でした。
「誰も見つけてくれない場合はどうなるんだろう…」
不思議に思って、再度、JRの落とし物センターに電話してみることにしました。
「GPSの機能で、新前橋駅の車両基地にあることはわかっているんですがどうしたらいいですか?」
こう相談したところ、「お客様問い合わせ窓口に電話してほしい」。
言われた通りに電話をしました。
すると、とても丁寧な口調で対応してくださるお姉さんが出て、「探してみますので少しお待ちください。でも少し時間がかかるかもしれません。あと、見つかった場合は取りに行っていただくか、着払いで送ってもらううことになります」と。
ここで気づきました。
「私には、スマホを新前橋まで取りに行く時間的な余裕はない」と。
ならば、と、着払いで届くまで、スマホ(&ケースに入れていた定期券)無しで生活できるか、というシミュレーションもしてみました。
まず、定期券は、タイミング良くあと数日で切れるところなので問題は無さそうです。
スマホも、「なければないでなんとかなりそう」な気はします。むしろ、「たまにはスマホがないほうがいいような気がする」という感覚もわいてきます。
でも、頭はこんなメッセージを送ってきました。
「そうは言っても、火曜から木曜まで東京出張(仕事が忙しい時は藤沢に帰らず東京に泊まっていて、それを東京出張と呼んでいます。意外と多いのですよね、東京出張が…)だから、着払いの荷物を受け取る時間もないよね。となると、スマホが戻ってくるのは、早くて金曜日。金曜だって、朝から晩まで仕事がパンパンでしょ。それに、何より不便だし、何かあった時に電話がないのは不安じゃないの?」
結論としては、昼食休憩のとき、新しいスマホを買いに行きました(機種変更)。
手続きにかかったのは30分程度。
あっという間に新しいスマホが手に入りました。そして、iCloudのデータを使えば、あっという間に元のiPhoneに元通り。
それ以前に使っていた機種代の残金は、2月末までに旧機種を見つけて返送すればほぼ免除されるとのこと。
なんというか、便利なものです。
でも、同時に、少し「虚しさ」のようなものも感じました。
あれだけ苦楽を共にしたのに、別れはこんなにスムーズな手続きで済むのか、と。
しかも、機種は変わっても、アプリの配置も、中にあるデータもそのまんま(LINEのメッセージも、写真も、メールも)。
あっという間に「旧スマホ」と同じ。喪失感を抱くこともなければ、少しぼんやりしているとスマホを落として機種変更したという事実すら、忘れてしまいそうです。
あまりの便利さに、少し呆気にとられてしまった、というのが、一連の出来事で感じたことです。
便利なのはありがたいことです。
私は、縄文時代のもの、ことが大好きだけど、縄文時代に戻りたいとは思えません。寒がりだから、エアコンやヒートテック、サーモスの水筒、貼るホッカイロのない生活なんて想像できません。というか、嫌です。断固拒否したいです。
ただ、便利さによって、見えなくなってしまっているもの、感じられなくなってしまったものもあるということは、忘れたくないと思いました。
きっと、見えなくなってしまったもの、感じられなくなってしまったものの一つが、「スマホをなくした」という不注意がいかに大変な出来事なのかを肝に銘じることだったり、間違いなく家族よりも長い時間を一緒に過ごしたiPhone8との別れを惜しむトランジション的な儀式のようなものだったりするのでしょう。
そして、私もそのシステムに与する一部である、という事実をついつい忘れがちであるということも。
ところで、私のなくしたスマホは、その後、最寄のJRの駅で簡単な手続きをしたら(詳しくは、「スマホが見つかった」との連絡を受けた際に教えてもらえました)、あっという間に手元に戻ってきました。
カードもPASMOも、あとは「何かあった時のために」と入れていた1万円札も、緊急連絡先を書いた名刺も全部そのままです。
私の不注意に付き合ってくれたJRに職員のみなさん、そして私の幸運さに心から感謝します。
ほんとうにありがとうございました。
2月はこんな不注意がありませんように。
そして、たとえ何かあったとしても、しっかりとじっくりと味わい尽くせるだけのスペース、余白がありますように。