「身体の知性には逆らわないほうがいい」と思った話。
「身体には知性がある」
そして「身体の知性には逆らわないほうがいい」
私が初めて実感したのは、大学4年生のときだった。
「若気の至り」の恥をひとつさらすと、当時の私は公務員試験を受験しようとしていた。
……という話を今のパートナーにしたら「それはあなたに一番似合わない職業じゃないの?」と言われたのだが、今となっては私もそう思う。
だけど、当時の私は、インテグラル理論に出会って、本気で社会変容を目指していた。そして私自身の指向や適性なんかお構いなしに、「本気で社会を変えたいのであれば行政の側にいくのが手っ取り早い」と考えたのだった。
でも、どうにもこうにも受験勉強に身が入らない。テキストを読んでも、ビックリするほど頭に入ってこない。「ならば丸暗記すればいいだろう」。そう開き直って、ひたすら暗記してみたりもした。
結論としては、受験勉強はしたけれど、私は公務員の道には進んでいない。
それどころか、実は「試験」さえ受けていない。
というのも、試験の直前、背中が痛くて動けなくなってしまったのだ。
あんな痛みは、生まれて初めてだった。
マッサージを痛みは治らないし、病院に行っても「原因不明」。
机に座ることもままならず、集中して試験に臨むなんてもってのほか。
ただベッドの上で痛みが消えるのを待つだけ……というまま、気づけば試験当日。出願はしていたけれど、試験に行くことはなかった。
そのとき、とてもびっくりしたことがある。
私は、心底「安心」していたのだ。
この時やっと気づいたよ。
私の本心は「公務員になりたい」なんてちっとも思っていなかった。
この時の私の状態は、ただ頭でつくりあげた「理想」だけが、一人歩きしていたのだろう。一人歩きというよりも「暴走」に近かったのかもしれない。
そんな「暴走」にストップをかけたのは「身体」だった。
当時の私は、「身体知性」という言葉の存在、その概念さえ知らなかったけれど、これぞ身体の知性が現れた瞬間だったのではないだろうか。
ちなみに、「心底「安心」した」と気づいた翌日に、背中の痛みはきれいさっぱりなくなっていた。身体が教えてくれる知性は、きっと、とてもシンプルなものだろう。
だって、自分のためにも、周りのためにも本当に思うもの。
私に行政側の仕事は、ムリだって。
そう確信したのは、いわゆる”視える人”に見てもらった時。私の業(カルマ)として、根本的に反体制側、オルタナティブ志向で、「革命家の人生」をくり返しているらしい(変革期を好んで生まれてくる人なんだって)。
この話を聞いたとき、どこか納得したのと同時に、上に書いた大学時代のことを思い出した。
真逆に進もうとしていたのだもの。
そりゃ身体は「NO」と言って当然だろう。
それと同時に、少し怖くなった。
身体はそこまで知っているのか。
だから、受験勉強に「身が入らなかった」のか。
身体の声、特に身体の発する「NO」に逆らってはいけないのかもしれない。
生まれて初めて、そう感じたのだった。
それ以降、私は身体の声、身体の知性にしたがって生きてきた。
——なんて、うまいことはいくはずがないのが人生というもので。
それから先も、何度も何度も何度も何度も、私は「そうじゃない選択」をしようとしては、身体の「NO」によって現実に引き戻される……という経験をしてきた。
思い出しきれないほどの間違いがくり返しされていき、そのたびに少しずつ「調整」がとれていると良いのだけど。今は少なくとも、何となく「身体」が求めているものがわかるようになってきた。以前に比べると「身体の知性」と「私」の調和がとれつつあるかもしれない——と、うっすら思い始めているのが、今、ここ。
と、決して優等生ではないのです。
だけど、何度も何度も間違ってきたからこそ、見えてくるものもあるらしく。「身体の知性」に逆らおうとしては引き戻される経験を、相当な数、積み重ねてきたおかげで、かつての私のように「身体の知性に逆らおうとしている人」に、とても敏感になってきた。
というか、はっきり言うと、
今の時代、身体の知性に逆らおうとしている人が多すぎる!
頭、心の暴走があちこちで起きているように感じるのだ。
ここまでくると、個人の問題ではないと思う。
おそらく、教育や経済を含めた今の社会システムが「身体の知性」に合っていないのだろう。「ふつうに生きる=社会に適応して生きる」だけで、身体は悲鳴をあげている……私たちが生きるのは、そんな時代なのかもしれない。
だって、学生やオフィスワーカーにとっては当たり前の「座りつづけること」だって、身体にとっては「NO」を発したくなる行為なのだから。
……と、「身体の知性」について考えていくと、いくらでも広げられるのだけど、今日着地させたいのは、私の密かな野望だ。
身体の声、身体の知性が蔑ろにされつづけている一方で、私たちが抱えているいろいろな問題を解くための「ヒント」は、身体にあると思っている。
それは、私が実感してきたことでもあるし、意識変容の世界で古くから言われる一つのブレイクスルー「Body-Mind Integration(心身/身心統合)」の大切さからも言えることだろう。
今の時代に適した形での「Body-Mind Integration(心身/身心統合)」の可能性を少しずつ探究していきたい!
先月から始めたこちらのイベントには、そんな私の野望が詰まっている。
「心」「思考」だけでは解けない問いに「身体」の知性を取り入れる。
「身体」だけだと共有しづらい部分を「心」「思考」を取り入れて言葉にしていく。
そんな行ったり来たりを通じて、解けそうで解けずにいた「宙ぶらりん」の課題を紐解いていくのが、こちらのイベントで行っていきたいことです。
かつての私のように、身体の声が聞こえなくなってしまっている人。
身体の知性の可能性を、もっと探究していきたい人。
身体の知性と心/思考の知性を統合させる道を探りたい人。
難しいことはよくわからないけれど「何となく気になる」と感じた人。
特に最後の「何となく気になる」は、めちゃくちゃ大事だと思う。
経験上、身体の声や、身体の知性は、まずは「何となく」「よくわからないけれど」みたいな形で現れてくる。そんな「何となく」の感覚にしたがいつづけていくことが「connecting the dots」の「点を打つ」ということなのかもしれない。
というわけで「何となく、よくわからないけれど気になる」という感覚を大切に。そして、今、このイベントに対してそう感じた方は、ぜひ参加してみてくださいね。