台詞を体験すること
いま演技訓練のなかで扱っているテキスト(台本)は、
とても深く、大きな作品だ。
1934年にブロードウェイで上演され大ヒットし、そして現在でも上演され続けているリリアン・ヘルマンの「子どもの時間」
日本語翻訳された方が作品解説をした文面があるのだが、
ヘルマンはリアリズムに相当なこだわりのある作家だったそうだ。
…リアリズム…
舞台上のリアリティとはなにか?
これが最近のわたしの課題だ。
sense of truth = 真実感
訓練のなかで「一番大事にしなさい」と何年も言われ続けている言葉である。
さて、台詞を発していくなかで、
口に出してみてカラダとフィットしている時と
「あれ?うーん?なんか違うな」とミスマッチしている時とある。
【sense of truth】の感覚とも大きく関わっているんだろうとも思う。
ミスマッチしている時は台詞に真実味を持てていなのかもと思うのだ。
台詞を自分のモノにするためにはどうしたら良いのか…?
台詞がカラダとフィットしている時、していない時の違いはなにか…?
(しかしまだまだ表面上しか見えてなくて「フィットしている」と感じているだけなのかもしれない…疑問は延々と続く)
今日はそのことについて考えていた。
そして、思い出すのが、
訓練のなかで師が繰り返し伝えてくれる言葉。
「台詞を体験する」
その台詞を言っている時の心やカラダの状態を舞台上で体験する。
これは作品への知識や理解をするだけではなかなか獲得できない感覚で、
何事もちゃんと理解してから進みたかった私は「ほうほう、こういうことなのか~」と実感するまでに数年かかった。
(自分自身ではそんな意識は無かったつもりだったが、カラダは「頭で理解するまで進みたくなかったようだ」と振り返るとそう思う)
「体験してみることで真実味を得る」ということなのか??と思うのだ。
しかし、今の私が「ということなのか?」と思っていることも、
真実であるかは疑問だ。
そう思う理由として、この「子供の時間」という作品
女教師二人が同性愛疑惑をかけられ追い詰められていくのだが、
1934年の初演当初、同性愛は犯罪とされていた。
そのため評論家の劇評でも同性愛についてだけをフォーカスしているものが多かったらしく、ヘルマンが本当に見せたかったであろう人間の内面部分に触れている劇評は少なかったと解説に書かれていた。
奇抜なドラマ(同性愛や死)にフォーカスすればそれしか見えないが、それは表面的なことに過ぎず、そこにフォーカスしていまうと作品の真理が見えなくなってしまうのではないか?
そして真理とはもっと深いところに落ちているのではないか?
作品解説を読み、そんなことを感じると「真実」とはなんだろう?と考える。
そして先ほどの疑問に戻るのだ。
「台詞がカラダとフィットしている時、していない時の違いはなにか…?」
いま、わたしはテキストで扱っている「子供の時間」の他に、
オリジナル作品のミュージカル出演も抱えている。
この作品は再演で,当時、執筆と演出をされた方が演じた役柄を頂いた。
作品のメッセージを流れのなかで落としていく非常に重要な役柄のため、わたしのなかのウエイトはなかなかに大きくなってきた。
この二つの作品を同時に抱えるには、
今のわたしの状態ではキャパオーバーになりそうな予感もする。
なので、少し整理がしたくて今日は文章にしてみた。
どんな作品でも突き詰めることは同じなんだろうけれど。
sense of truth = 真実感
迷わずに舞台上のリアリティを探そう。