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日記 2020年5月 舞台の上に立つ半幽霊的身体を見るという体験。

 5月6日(水)

 ゴールデンウィーク最終日。
 昼前に起きて、スマホを開くと一つのヤフーニュースに目が留まる。
「5日午後、岐阜県関市の長良川で、友人と川遊びをしていた名古屋の10代後半の男性が溺れ、すぐに引き上げられましたが心肺停止の状態」とあって、その記事の最後に「岐阜県は新型コロナウィルス感染拡大を防ぐため、河川敷でのバーベキューや水遊びの自粛を呼びかけています。」と書かれていた。

 このニュースのコメント欄には目を覆いたくなるほどの強い言葉が並んでいた。間違った人間を見つけて正しさを説き、非難し、責めている。
 いろんな言葉や考えが浮かんでは消えた。
 気分は確実に沈んでしまった。伊集院光のラジオを聞きながら洗濯をする。気温が上がることの良い点は洗濯物がすぐ乾くことだ。
 あらかたの家事を終えてからゴールデンウィーク中に焼肉をした残りのお肉を焼いて食べた。

 夜、ツイッターで大滝瓶太という小説、批評、エッセイを書かれている方が「小説を読むひと」というアカウントを作って、【♯RTした人の小説を読みに行く をやってみた】という企画をされていた。
 そこで

やんわりと「ここはなろうだからなろう向けの感想を書け」と言われたことについて、すごく心に大きな傷を負ってしまった…。実作者としても批評家としても、すべてを否定された気分だ

とツイートされていた。

 小説家になろう、というサイトで小説を書かれている友人が僕にはいる。年に一回から二回ほど飲みに行く友人で、なろうサイトで人気になって、何冊かの本を出版していた。
 一緒にお酒を飲む度に小説の話をするのだけれど、彼と僕の持つ小説像は異なっていて、互いに不毛な時間を過ごしてしまうことが多々あった。
 どんなに理解しようとしても、彼の小説像が僕にはよく分からなかった。
 それはおそらく、彼が小説家になろうというサイトに受ける為の作品作りをしているからで、僕が考えている小説や批評とはまったく異なったルールで動いているから。
 大滝瓶太のツイートを見て、そんなことを思い出した。

 僕は「ここはなろうだからなろう向けの感想を書け」という外からの声を受け容れない場所には極力、近付かないでいたい。
 とはいえ、小説家になろうで本を出版した友人とは、これからもお酒を飲みに行くし、小説の話もする。
 どこかのタイミングで、僕は彼の小説像を理解できるかも知れない。絶対に理解できないとは、どうしたって言い切れない。

 1時過ぎにベッドへ入る。その後、3時まで眠れなかった。せっかくなので、羊を数えてみようと思う。
 156匹まで数えて、眠れる気配がなくやめてしまう。
 4時前には眠れたと思う。

 5月7日(木)

 久しぶりの仕事だった。
 菅田将暉のラジオを聞きながら、仕事へ向かう。職場までの道のりを三十分ほどかけて歩くのだけれど、それが楽しい。
 ゴールデンウィーク中に出かけられたのはスーパーくらいで、基本的に家に籠っていた。
 その為か、ラジオを聞きながら歩くことが楽しくて仕方がなかった。

 菅田将暉のラジオの中で、インドで発見された新種の毒ヘビの名前を「ハリー・ポッター」シリーズの登場人物にちなんで「スリザリン」と名付けられたと、話題になっていた。
 正確には「Trimeresurus salazar」と名付けられた、とのこと。
 新種のヘビは発見されていなかっただけで「ハリー・ポッター」が出版されるよりも前から生息していたはずだ。
 そういう風に考えていくと少し面白い。

 仕事も連休明けということもあって、普段より案件があって時間が経つのも早く感じられた。昼休み、倉木さとしからLINEがきていて、一つ前の日記を読んでくれたようで「BANANA FISH」の話がしたいとある。
「地味にコミック持ってる」とある。
 せっかくなので、新しく連載をはじめた「木曜日の往復書簡集」の中で取り扱えないか、試そうと提案し話はまとまる。
 まだ「BANANA FISH」のアニメを全部見ている訳ではないので、ある程度は見てから考えようと思う。

 ちなみに、5月5日の日記で「BANANA FISH」のアッシュという男の子は、女の子が抱える「居場所のない思い」を注ぎ込まれた器として存在している、と僕は書いた。
 この器として存在するキャラクターとして、鋼の錬金術師のエドワード・エルリックも似た側面を持っているんじゃないかと思う。
 鋼の錬金術師は別にBL的な要素は持っていないけれど、二次創作でそういう作品が多くあったと記憶している為に、そう思っているのかも知れない。
 
 仕事が終わった帰り道もラジオを聞きながら歩く。少し肌寒い。マフラーを首にまきニット帽をかぶる。
 部屋に帰って、ゴールデンウィーク中に買っていた長いもを食べようと思って冷蔵庫から出すと、カビが生えていた。
 野菜にカビが浸食していく様は、少しグロテスクだった。
 長いもは捨てて、冷凍ご飯と冷凍のシーフードを使って、海鮮チャーハンを作る。最近は困ったら、これっばかり作っている気がする。

「BANANA FISH」を見なければ、と思いつつ以前、職場の同期から勧められた「ゲーム・オブ・スローンズ」という海外ドラマのシーズン1の1話を見る。

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 登場人物や世界観が未だに掴めていない為、小さな王子(?)に飼われているオオカミが可愛いなぁと思って2話へ進む。
 2話のラストで、そのオオカミを殺すという話になって絶望する。
 僕はこの先、「ゲーム・オブ・スローンズ」をどういう気持ちで見れば良いのか。

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 ……可愛い。

 5月8日(金)

 緊急事態宣言の延長によって、仕事が変則的なシフトとなっている為、本日は休み。
 朝から半身浴をして、「ディスコ探偵水曜日」の続きを読む。お風呂からあがって、Creepy Nutsのラジオを聞きながら洗濯物や朝食をとる。
 少し小説を書いてから、買い物のために外へと出る。
 少し遠回りして、住宅街を歩くと鯉のぼりを出している家が幾つかあった。

 買い物を終えて、カクヨムで新しくはじめた「木曜日の往復書簡集」にコメントをいただく。返信を考えるも、上手く浮かばず、買ったビールを二本飲む。


 少し空腹な状態で飲んだためか、パソコンの前にいるのが辛くなって、ベッドで少し眠る。
 夜近くに起きて、なんとなかコメントへの返信をする。
 そのあと、noteを更新しようと思って「煙がただよう空に」という小説の手直しをする。

「煙がただよう空に」は僕が二十一歳の頃に書いた小説だった。それまでも小説っぽいものは書いていたが、これなら小説だと言えるかなと思ったのは「煙がただよう空に」が初めてだった。
 なので、noteに載せる時に「はじめての小説」というタグをつけた。


 二十一歳。
 八年もの前の小説だから未熟な部分は目立つ。
 けれど、その分、物語の世界に入って目についたもの、手に肌に触れたもの、すべてを文字にしようとしていて、今となっては書かなくなってしまったものが詰まっていた。

 深夜、寝ないといけない時間を過ぎても寝ることができなかった。こういう時は、ずっと何かを考え続けているため、それを吐き出すように小説を書いた。
 結局、寝たのは朝の六時前だった。

 5月9日(土)

 二時間弱だけ寝て、部屋を出た。
 仕事へ向かう道でフラフラするかと思ったが、とくにそういうこともなかった。
 職場についても特別眠くはならなかったが、流石に昼休みは気が抜けて少し寝た。
 仕事の関係で常にツイッターのトレンドがパソコン画面の端に並んでいるのだけれど、そこにずっと「犬夜叉」関係の文字が並んでいた。どうやら、秋から犬夜叉の続編がテレビで放送されるらしかった。
 タイトルは「半妖の夜叉姫」とのこと。

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 僕は小学生くらいの時に、テレビで見ていた程度で熱心なファンという訳ではなかったけれど、ツイッターの盛り上がりを見ていると、原作の漫画を読む機会を作ろうかなと思う。
 犬夜叉に限らず、僕は高橋留美子の漫画を読まずに大人になってしまった人間で、「らんま1/2」や「めぞん一刻」辺りは読んでおかなくちゃと思っている部分がある。
 更に言えば、「うる星やつら」は押井守が監督の映画「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」しか見ていない。
 それはやっぱり良くない。

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 部屋に戻ってきて、サラダチキンと温かいうどんの夕食をとった。その間、「ゲーム・オブ・スローンズ」を流していた。
 ご飯の後、カクヨムで僕の作品を読んでくれている読者の子(あるいは編集者のような、妹のような子)にLINEをした。
 仕事が忙しい子で、新型コロナウィルスの流行で自宅待機などになって、休めていれば良いなぁと思って尋ねてみたところ、「この春に部署移動があって、さらに社畜になりました」と返ってきた。
 予想外の回答だった。
 少し前に会った時に、今は資格の勉強をしていると言っていたので、こういう事態の中で腰を落ち着けて学んでいればいいなぁと思っていたのだけれど、現実はそうもいかないみたいだ。
 LINEを終えて、少し文章を書いて日が跨ぐ前にベッドへ入った。

 5月10日(日)

 朝、ツイッターを開くと「#検察庁法改正法案に抗議します」がトレンドに入っていた。
 本当に多くの著名人も呟いていて、すべてを追うことはできないけれど、仕事へ行く電車の間で可能な限り確認した。
 日曜日の職場はほとんど無法地帯な部分があって、朝からずっとyoutubeで音楽が流れていた。途中からアニソンメドレーになって、懐かしい曲があって何度も手が止まった。

 昼休みにyoutubeに「King Gnu - Live at STUDIO COAST(2019.04.12) & 日比谷野外大音楽堂(2019.10.22) 」というKing Gnuのライブ映像があることを知る。
 仕事の帰りは、それを聞きながら帰った。
 時折、映像を見ていると頭に浮かんでくるものがあった。
 本間翔太という方の「音楽業界は負けて負けて辿り着いたのが「ライブ」だったから簡単にライブを捨てられない」というnoteの記事だった。

 


 そこで、

「CDや配信を通して音楽データを買ってもらうのではなく、ライブに行って生でアーティストを見て、音楽やMCを聞いて、ファン同士でコミュニケーションして、記念でグッズを買って、それらの『体験』を買ってもらう」というのがCDバブルが弾けた音楽業界がやっと辿り着いた次のビジネスモデルでした。

誤解を恐れずに言うなら音楽業界はもう音楽単体では売っていないのです。

 と、まず結論付けた上で、

昨今試行錯誤されているライブ配信は生では味わうことができた「何か」が削ぎ落とされてしまい、体験の強度が落ちてしまっているように個人的に感じます。きっとその「何か」は大事なものだったのでしょう。

 と続けてらっしゃった。

 僕は「King Gnu - Live at STUDIO COAST(2019.04.12) & 日比谷野外大音楽堂(2019.10.22) 」を見て、本間翔太の言う大事な「何か」はここにあるのだろう、と思った。

 更にそこで思い浮かんだのは「ゲンロン5」の特集「幽霊的身体」だった。

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 幽霊的とは「いまここで目のまえに見えるものでありながら同時に見えないものでもある、その両義性を指す言葉として用いられる」と説明がなされた後に、以下のように続く。


 演劇の身体は、この点でまさに幽霊的である。俳優はいまここにある舞台で演技をする。しかしそれは、いまここにないものを召喚するためである。俳優が演じる役柄はいまここには実在しない。
 物語とは一般に、いまここにないものを召喚する語りのことである。あらゆる文化は物語なしには生まれない。したがって、この点ではそもそもあらゆる文化は幽霊なしには成立しないとも言える。

 それは音楽のライブにしたって、そうなのではないか? と僕は思った。
 ステージに立って歌う彼らもある種の役柄や物語を背負っている。ただ、彼らが演じる役柄は実在しない訳ではない(どちらかと言えば、別の人格という印象がある)、という点で、音楽のライブは半幽霊的な体験なのかも知れない。
 この半幽霊的な体験が「半」であるが為に、幽霊側に近付くのか遠のくのか、あるいは演劇などとはまったく異なった体験になるのか、は少し考えてみたい。

 何にしても、King Gnuのライブも見て、井口理のパート部分でボーカル、キーボード、タンバリンと書いてあるサイトがあって、タンバリン? と思っていたんだけれど、確かに使っていて納得した。
 しかも、結構格好良かった。
 タンバリンを叩いて、格好良いってなんだろう?

 夜、飲み仲間の一人とLINE電話をする。
 こういうご時世だからか電話先の彼は、知り合いから「友達になって欲しい子がいるんだよね」と女の子を紹介された、らしかった。
 へぇ。
 上手く行ってほしいなぁと思ったが、そうもいかないようだ。
 一時間ほど喋って電話を切った。

 少し文章を書いた後、とある方が書いているブログが更新していないかな? と思って覗きにいった。
 更新されていて、カクヨムで新しくはじめた「木曜日の往復書簡集」の感想を書いてくれていた。

 木曜日の往復書簡集で書いた内容としては、「好きな作家と嫌いなものを答える自己紹介」と「創作活動に好きなものと嫌いなもののどちらが必要か」というものだった。
 僕は往復書簡集の中で、嫌いなものは水道水で作った氷だと書いていて、改めて考えるとスベっている。
 スベってるなぁってことをツイッターでツイートしようとして、それもスベっている気がして、ツイートでも触れなかった。
 けど、絶対にスベっている。
 今なら嫌いなものをなんと答えるだろう?

 そうこうしている内に僕の部屋に、ブーンと音を鳴らして飛ぶ、まぁまぁデカい虫が侵入してきた。部屋の窓は全部閉まっているはずなのに、と思って確認する。
 窓は全部閉まっている。
 絶望。

 電気に向かって飛んでいると分かったので、部屋の電気を消して、キッチンの電気をつけて部屋から逃がす。その後、風呂場の電気をつけて、キッチンの電気を消す。
 風呂場に虫を誘いこんで、シャワーで撃退する。
 決定。
 嫌いなものは、ブーンと音を鳴らして飛ぶ虫。

 ちなみに、ブログで書いて下さった方は「絶対的な」ものや人が苦手かもしれない、と仰っていた。

「絶対」に自分が正しいと思っている人。
「絶対」に~しなくちゃとか。
「絶対」に変わらないとか。
「絶対」に死なない不老不死とか怖すぎます。

 すごく分かる。
 僕も「絶対」とか、それに類する強い言葉が苦手な気がする。
 
 創作活動に好きなものと嫌いなもののどちらが必要か、については以下のように答えてくれていた。

 嫌いなものほど、克明に書けるかもしれないですし、印象深いものになるかもしれません。
  (中略)
 でも、問の答えとしては好きなものです。

 これはまさにマーブル模様的だ、と思って、一人で嬉しくなった(答えてくれた方は、マーベル模様をテーマに小説を書かれている)。

 マーブル模様を調べると「大理石を模した模様の事で、流れるような形を複数の色で多重に重ねたり、練り込んだように見えるプリント柄」とある。
 例えば、一番嫌いなものが真っ黒で、一番好きなものが真っ白だとして、その一番好きな白色を際立たせる為には、より濃い黒色を練り込んだ方が印象的になる。
 だから、僕はこの方の小説が好きなのかも知れない。
 
 と、許可もなくブログの内容をまた引用してしまった。
 今度、正式に許可を取って、その方の小説についてnoteで書けたらいいなぁと思う。

 5月10日だけ、ずいぶんと長く書いてしまった。
 1日に物を考える比率は、当然だけれど、平等じゃないんだなと日記を書いて改めて感じる。

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さとくら
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