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「白色嫌厭症」ならぬ「運転嫌厭症」に苛まれる日常。
吉行淳之介が「白色嫌厭症」というエッセイを書いている。
これは吉行淳之介いわく『文字が書かれていない真白い原稿用紙をみると、なんともいえず厭な滅入った気分に陥ってしまう』ものらしい。
この原稿が書けない事態において、吉行淳之介なりに対処する内容が「白色嫌厭症」のエッセイなのだけれど、そこでようやく机に向かって書いた文章に対し、以下のような例えをしている。
初心者の運転している車を見ていると、車が生きて走っていない。それに似た文章しか書けない。
この「車が生きて走っていない」状態が今の僕と繋がる。
ただし文章の話ではない。例えでもなんでもなく、字のごとく「車」のことだ。
文章は実は結構書いている。noteにはアップしていないけれど、近いうちに色々リズムを作って更新していけると思う。
多分だけれど。
問題は教習所だ。
僕は車の免許を取るために教習所に通い始めてから、毎回マニュアル車の免許じゃなく、オートマ車にしておけば良かった、と繰り返し念仏のように唱えている。
まず、世界にはマニュアル車とオートマ車という二つの免許がある。
グーグル先生に違いを尋ねたところ、AI先輩が以下のように返答してくれた。
オートマ(AT)とマニュアル(MT)の違いは、ドライバー自身がギアチェンジを行うかどうかです。 オートマはアクセルを踏むと自動的にギアチェンジを行い、マニュアルはドライバー自身でギアチェンジ(変速)をします。 マニュアル車を運転する際は、クラッチペダルを踏みながら手元にあるシフトレバーを操作して、ギアを変更します。
僕は左利きで正直、右手で行われる細かい作業が苦痛な人間である。いや、それが理由かは分からないけれど、マニュアル車のギア変更が本当にまったく上手く行かない。
教習所はなぜ、オートマ車で車の運転を馴染ませてからマニュアル車のギアチェンジを教えると言う初歩的な切り分けを行わないのか。
運転したことねぇっつってんのに、ギアチェンジと車の運転を同時にしろって強要してくるのは、もはや何かしらのハラスメントの域に達してんじゃねぇのか、と毎回キレそうになる。ハラスメントは言い過ぎた。初心者の気持ちに寄り添う配慮というか想像力の欠如だ(結局あまり変わらないな)。
自分で書いておいてアレなのだけれど、車の免許を取りに行くなんてエッセイ向けのイベントが起こっているのに、文章化してこなかったのは、書いたら九割が恨み言になると分かっていたからだった。
なのに、こうして書いているのだから、僕はダメな人間である。ほんと。
まじで車のことを嫌いになる。元々好きじゃないけれど。
昔読んだ芥川賞の受賞作(候補作だったかも知れない)の一つに「世界の悪の根源は速さにある。遅い乗り物は安全だ」というような台詞があって、僕はこれに結構同意する。
三浦哲郎も電車の長距離移動に対し「乗り物は人間の尊厳を損なう」という旨のことをエッセイに書いている。
人はそれほど速く、そして遠くへ移動すべきではない。というか、人間はそれに耐えられるようにできていない。
というのが、戦後の小説家たちの共通認識だった。
これの背景には確実に原爆とか、空襲があって、人類の進歩がより簡単に人を殺してしまうことを肌感覚として知ってしまっているからこそ、遅い乗り物やその土地で生きることを肯定的に捉えてしまっていたのは理解できる。
現代人からすれば、インターネットの登場もあって、やりとりは速いことは当然で、移動もそれに準ずるという感覚がある。車も便利だし、電車、飛行機とあらゆる移動が可能だ。
いや分かる。分かるけど、どこかに人間の肉体的な限界は来る。
人間社会はそろそろ速く、遠くへ行くことを是とする価値観を変換するべきだ。遅くというより、適切な速度に変えていくべきだ、という意見に耳を傾けた方が良いのではないか。
もちろん、これは屁理屈だ。
僕はただ教習所へ行くことが苦痛で、自分の選択を憎んで、こうして恨み言を書いているに過ぎない。
話を吉行淳之介に戻す。
彼は車の運転を見て「これは生きてるな」とか「これは生きてないな」とかって判断していたらしい。上手いな下手だな、ではなく、生きてるかどうか。
この辺に吉行淳之介のセンスを感じるけれど、このマシーンに対する見方は面白い。
つまり僕は車を生かせていないことになる。常に車が死んだ状態で教習所の教員の言う通りの動作をしているに過ぎないわけだ。
もし、車を生きているように動かすことができるようになれば、速さに対する意識も変わるのだろうか、と思わないでもない。
生き物にはそれぞれ適した動く速度がある。鳥や動物や魚。あらゆる環境に適した速度を獲得し、それを当たり前として動き回っている。
車には車の適した速度があり、その一部品に僕がなると考えることもできる。生き物的に言えば、筋肉だろうか。
そう考えると僕は車にとって良い部品(筋肉)ではない。
教習所は僕が良い部品(筋肉)になるための場所だと考えれば、行くのが辛くないのだろうか。
いやでも、別に良い部品(筋肉)になりたい訳でもないしなぁ。
車が世界から消えたら、もっと移動は心穏やかに行うことができる。
すべては仕方ない、と諦めるしかないと知っている。車が道路で我が物顔で行き来する世界に僕は生まれてしまったのだ。そして、それに加担する時期が来てしまった。
ここまで書いて僕は本当に車の運転が嫌で嫌で仕方がないんだなと分かった。
もう仕方ない。嫌なんだから。「白色嫌厭症」ならぬ「運転嫌厭症」だ。
とはいえ、それでも教習所には通うし、免許は取るのだと思う(だって、お金は払ったんだから)。その時も「嫌厭症」は残るのかどうか。
今から僕の気持ちが変化するのか興味がある。
正直、ここまで読んで下さった方は伝わったと思うけれど、めちゃくちゃ嫌なんです。けど、これが好きだったり、まぁそういうもんかという気持ちになるんだとしたら、それは結構面白いことだなと思う。
人間は変わる生き物だと言う。今までも嫌で仕方がないことを、それでもまぁ良いか、と飲み込んできたことが多々ある。
今回もそうなるのか、どうなのか。それは少し楽しみにしている。
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