【小説】西日の中でワルツを踊れ⑯ 社会的なルールから外れた腕時計をしない人たち。
紗雪が小学生の終わりから、中学二年の夏ごろまで過ごしたキンモク荘。
そこの女将、鶴子は紗雪が出ていった後、悪い噂に負けない接客とキャンペーンによって、旅館の経営を立て直した。
流石と言っていい。
誰にでもできることじゃない。
そんな鶴子を更なる不幸を襲ったのは、今から半年ほど前だった。
きっかけは交通事故だ。運転手のどちらもが不注意の不幸な事故。
そういう類のことが世の中には時折、起こる。
問題があるとすれば、車とバイクの接触事故だったこと。
車を運転していたのが鶴子で、バイクを運転していた男が田宮由紀夫くんだったこと。
両者は話し合った。
平和的な解決だ。素晴しい。
ここで田宮くんはお父さんに連絡を取った。
すると現場に田宮くんのお父さんが現れた。分かっていると思うが、彼はやくざだ。
まぁそうは言っても、誰が見ても分かる不幸な事故だ。
どちらかが怪我をしているわけでもない。
田宮くんのお父さんは示談で良いと言って、お金はこれくらいでと良心的な金額を提示した。
鶴子からすれば、やくざと関わることに気が引けて、少々面倒になってでも警察に連絡をしたかったが、その場の流れに足許をすくわれて頷いてしまった。
一物の不安を抱えながら、鶴子はその場を離れた。
そして、普段の日常に戻った。総じて悪い予感というのは当たるものでね。数日後から脅しが始まった。
強面の連中が何人も旅館に泊まりに来て、ロビーで他の客に喧嘩を売ったり、部屋を異常に汚したり、備品の幾つかを壊したりした。
他にも、思いつく限りの迷惑を彼らはキンモク荘に対しておこなった。
その時点で、鶴子は俺に連絡を入れさえすれば何とでもなった。
だが、鶴子は俺にも、他の誰にも頼らなかった。
強い女だ。なぁ、そそるだろ? 俺はその話を聞いた時、本当にくらっときたよ。
まぁそういう脅しが続く中、遂に原因であるところの田宮由紀夫が泊まりにきた。
もちろん、そんなことで鶴子が揺らぐはずがなかった。
ただ鶴子個人とは別の問題として、田宮の関係者がした嫌がらせによって従業員は彼を招くことを良しとはできなかったし、彼のせいで離れていった客も少なくなかった。
鶴子は田宮由紀夫と話し合わない訳にはいかなかった。
彼女は部屋の案内、食事の手配を全て引き受け、その上で食後に彼の部屋を訪ねた。
ちなみにナツキくん、君は田宮くんの顔を見たことあるかい?
ん、ない? 残念だなぁ。
一度、見てみると良い。
知性を捨てて育ったサルのような顔をしているから。
サルに言語が通じないように、鶴子の話は田宮に通じなかった。
それどころか、田宮は事故の件を持ち出し、被害者ぶって鶴子に謝罪を強要した。
当然、鶴子は謝った。
強い女だからね。
しかし、田宮は納得しなかった。
誠意が足りないと騒ぎ、服を脱いで裸で土下座しろ、と田宮は迫った。誠意を感じ取るお頭のないサルが何を言っているのか、と思うが、鶴子はそれに従った。
服を脱いで丁寧な言葉を崩すことなく鶴子は田宮由紀夫に謝った。
その姿を田宮はカメラの動画で撮って、アホ面で周囲の人間に自慢しているそうだ。
不良どもが喧嘩の数を自慢するようなものかな。それが箔になると思っているんだろうなぁ。
本当に、知性が足りないサルだ。
「さて、ナツキくん。もう分かるな?」
潤之助の声は変わらず落ち着いたものだったが、目の奥には隠しきれない苛立ちが込み上げていた。
「田宮由紀夫が撮った、鶴子の土下座動画を取って来い。そうすれば、知りたいことは何でも教えてやる」
「鶴子さんを大切にしているんですね」
最初の感想はそれだった。
潤之助は新しい煙草を咥え、火を点けてから言った。
「俺が抱いた女を侮辱するヤツは誰であれ地獄を見せる、男として当たり前のことだろ?」
紗雪の話を聞いた時に分かっていた。
片岡潤之助の在り方は人とは大きく異なっている。
潤之助の隣に座った女性が、一言「そろそろ」と告げた。
煙草を指で挟み、潤之助は煙を吐き出して頷いた。
「ナツキくん」
と言って、中華料理屋の天井を指差した。
「この店には二階があってね、完全予約制の個室になっている。明日、その個室でやくざの会談がおこなわれる。この辺のやくざは少し複雑でね。一つのシマを年ごとに管理し合っているんだ。金の成る木の甘い蜜は皆欲しいからな」
潤之助はどこか詰まらなそうな表情で続ける。
「その金の成るシマで事故が起きた。田宮由紀夫と川島疾風が起こした事故だ。あくまで田宮由紀夫はやくざの構成員ではない。ただ、川島疾風。彼がややグレーな立場にいた。以前、やくざの仕事を手伝っていた程度のことだが、まぁ内情なんてのはどーでもいい。グレーである以上は問題だ。そんな訳で、やくざたちは話し合いの場を設けなければならなくなった」
「その会談に田宮が来るんですか?」
「まぁ当事者だ。死んでなければ来るだろうよ」
言った瞬間、潤之助は口元だけの乾いた笑みを浮かべた。
「祈れよ、西野ナツキ。明日、田宮由紀夫が来なければ、君が知りたかったことは一生分からないままだ」
「分かりました」
それ以外、言葉はなかった。
片岡潤之助が立ち去った後、ぼくは彼が指差した天井を眺めていた。二階の個室で明日、やくざの会談がおこなわれる。
それにどう関係すればいいのか、さっぱり分からなかった。
視線を戻し紗雪の方を見たが、彼女はじっと何かに耐えるようにテーブルを見つめていた。
テーブルの上に残った料理はその熱を失い固くなっていくのが分かっていたけれど、それを食べようという気にはなれなかった。
長い五分が過ぎて紗雪が口を開いた。
「ナツキさん。気づきましたか? 父は腕時計をしていないんです」
「そうでした?」
思い返してみようとしたが、上手く浮かんでこなかった。
「そうなんです」
と紗雪が頷いた。
「もっと言えば父は携帯さえ持ち歩きません。常に秘書の方が付き添い、他人からの連絡はその秘書を通じておこなわれます」
「徹底してますね」
「本当に」
と言う、紗雪はぼくの方を見ようとしなかった。
「今から話すのは鶴子さんから聞いた話なんですが、良いですか?」
「もちろん」
誰から聞いたものでも紗雪が話すのであれば、ぼくはなんでも聞きたかった。
「ヤクザ映画に出てくるやくざも腕時計をしていないそうなんです」
片岡潤之助が腕時計をせず携帯を持ち歩かない理由と、ヤクザ映画の繋がりは分からないものの、ぼくは頷いた。
「理由はとても物語的ですけど、ヤクザ映画のやくざは社会の秩序の外にいる、という記号なんだそうです。そう考えると、腕時計はまるで社会が課す手錠みたいですね」
紗雪の物言いには何かしらの飛躍があったように感じたが、ぼくは口を挟まず彼女の言葉を待った。
「当たり前ですけど、私たちの生活は時間によって管理されています。仕事をするにしても、学校に行くにしても。つまり、時間に定められた事柄は社会的な行動なんです。そして、ヤクザ映画のやくざは、そのルールから外れている。というしるしとして彼らは腕時計をしていないんだそうです」
なるほど、とぼくは納得した。
紗雪の言う通り実に物語的なしるしだ。
けれど、そうなると記憶を失った、過去の時間を剥奪されたぼくは物語的にはどうなるのだろう。
と思ったが、考えがまとまる前に紗雪が続けた。
「父は自分のルールを生きる為に腕時計をしていません。だから、彼を頼る時は彼のルールの上で頼まなければいけない。そう鶴子さんは言っていました」
片岡潤之助のルール。
――俺が抱いた女を侮辱するヤツは誰であれ地獄を見せる。
おそらく、そこに鶴子の意思は介在しないのだろう。
「鶴子さんは父が言う通り強い人です。でも、その強さは鶴子さんが自分のルールを守っているからこそ、です。おそらくですが、鶴子さんの中で父に頼ることはルールに反していたのだと思います」
鶴子の中で田宮由紀夫に好き勝手されることと片岡潤之助に頼ることの二つを天秤にかけていた。
そして、鶴子は潤之助に頼るよりも田宮の横暴に耐えることを選んだ。
ぼくは鶴子という人間を知らない。紗雪や潤之助の言葉の端から想像する他ない。ただ、だからこそ浮かんだ疑問もあった。
「紗雪さん」
「はい」
「鶴子さんは紗雪さんの死者の力に対してもそうだったんですか?」
紗雪の言う鶴子は自分の中にあるルールによって、強い人でいるような物言いだった。
片岡潤之助に頼れなかったのも、自分の中のルールに反するからだと言う。
なら、井原紗雪の死者を『見る』『会う』力を鶴子が知った時、彼女はそれを認められたのだろうか?
世界の常識が根底から覆るような、彼女の力を。
「はい。鶴子さんは私の力を信じてくれませんでした」
感情の籠らない声だった。
「でも、私は死者の力を含めて私なんです。それは、どうしようもないくらいそうなんです」
ぼくは頷いた。
死者との関わりを抜きにして紗雪は自分を語れないのだとすれば、それはぼくもそうだ。
記憶を失った。
その事実を抜きにして、ぼくはぼくを語れない。
「紗雪さんは、鶴子さんに会いに行かないんですか?」
「どんな顔をして会いに行けばいいのか分からないんです」
紗雪の言葉にぼくは何も言い返せなかった。
彼女とキンモク荘、そして、舞子の関係をぼくは間違っても知っているとは言い難い立場にいる。
だから、紗雪がどんな顔をして鶴子に会えば良いのか分からないと言う以上、それには頷く他になかった。
今のところ、ぼくは紗雪と潤之助の話を聞いただけの赤の他人でしかない。
「あれ?」
と思わず、声がでた。「鶴子さんが紗雪さんの死者を認められなかった、と言うのなら川田元幸、紗雪のお兄さんもそうだったんじゃないんですか?」
話を聞く限り、川田元幸は紗雪の力を真正面から受け止めているようには思えなかった。
そういう視点から見ると、鶴子と元幸は似た立ち位置にいる。
「ナツキさん。私は幼稚な人間なんです」
「はい?」
そこで初めて紗雪はぼくを見た。
「私が好きな人は特別であってほしい。ただ、それだけの気持ちで私は兄を探しています」
「それは……」
と言いかけたが、声は続かなかった。
つまり、再会した川田元幸は井原紗雪の力を認めると?
紗雪が好きな人は特別だと。何故なら紗雪が好きな人なのだからと?
紗雪が続ける。
「兄が私のことを認めてくれないのだとしても、私の好きな人が無事だと分かれば、それでいいとも思っています」
紗雪の物言いは、もはや強がりを超えた投げやりな響きさえ含んで聞こえた。
けれど、母が亡くなり、キンモク荘で孤立した紗雪は仕方がないのかも知れない。
彼女の今までの環境や生き方を垣間見るほど、ぼくは紗雪と深く関われていない。
だからこそ、無責任なことが言えた。
「大丈夫です。元幸さんは無事ですし、紗雪さんの力のこともちゃんと受け止められるようになってますよ」
ぼくは柔らかい笑みを意識して浮かべた。
「冷えちゃいましたけど料理を食べてから、お店を出ましょう」
紗雪は小さく頷いて、箸を持った。
ぼくは取り皿に残った水餃子を食べながら、紗雪の兄である川田元幸にはできないことは何かを考え続けていた。
紗雪は明日のやくざの会談に行くと引かなかった。
しかし、女性を裸にして土下座させるような人間と会いに行くのに、紗雪を連れて行く訳にはいかなかった。
長い話し合いの末に、紗雪が一人付き添うを指名することで話はまとまった。
その付き添いは同室の山本義男だった。
「明日? 良いよ、私も外に出る予定があったしね。付き合うよ」
夜、有が眠った後、いつものように山本のベッドのスタンドの光だけで酒盛りをしている時だった。
山本があっさりと請け負うので、ぼくが疑った目を向けた。
「なに? ナツキくん」
「分かってます? 山本さん。ぼく、明日やくざの会談から、やくざの息子を見つけ出して交渉しないといけないんですよ」
「ん? それがなんだい? 別に、やくざと喧嘩をしに行く訳じゃあないんだろ?」
「でも、絶対に安全とは言えないでしょ?」
相手は一件の事故から旅館を無茶苦茶にした後に、女将を土下座させるような連中なのだ。
更に、川島疾風との接触事故も岩田屋町周辺のやくざが、顔を突き合わせて話し合うまでこじらせている。
田宮由紀夫が厄介な人間であることは明白だった。
山本は眉をひそめた。
「ナツキくん。絶対に安全なんて、世の中にあるはずがないだろう。知っているかい? 人間は鼻毛を抜く痛みで死ぬことだってあるんだよ」
そーなの?
山本が年齢に適った人を安心させる笑みを浮かべた。
「まぁ、ほら。さっき紗雪ちゃんから電話もあって、ナツキくんが危険なことをしようとしたら、止めて下さいって言うからさ。ナツキくん自身、紗雪ちゃんの為に危険なことはしないようにね。おじさん的には、君らみたいな初々しいカップルは見ているだけで楽しいからさ」
普通なら、ここで頷いて終わりだった。
けれど、こと山本に関しては裏を疑わずにはいられなかった。
「それで、山本さん。紗雪さんにどんな条件を提示したですか?」
「ちっ。変なところで鋭くなったな、ナツキくん!」
「良いから、答えて下さい」
容認できない内容だったら、紗雪には悪いが明日は一人でいく。
「紗雪ちゃんがナース服を着て、写真を撮らせてくれるって言うからさ。な? 良い条件だろ? ナツキくんだって、紗雪ちゃんのスーツ以外の服も見たいだろ?」
不覚だった。
正直、紗雪のナース服をぼくは見たかった。
つづく