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できないことが年齢と共に増えていく世代が始めるための目線。

 一人暮らし時代、毎週のようにお酒を飲んでいた友達がいる。

 彼は僕が同棲をはじめてから、キャバクラのキャバ嬢にハマった。かと思ったら、今は特定の誰かではなく、夜の街であれこれ遊んでいる。
 一日で何万というお金を使って色んなお店をはしごして朝まで過ごした、という話は面白い。

 僕自身そういう夜の街に行かないので、異業種の話を聞く感じがある。
 とはいえ、彼のそういう遊び方が友達に呼び出されて行ったとか、キャッチに声をかけられてついていったとか。そこに彼の主体性がないことは気になった。
 流されて短期的な欲望を発散し、寂しさを紛らわすことに尽力する。僕はそういう印象を持ってしまった。

 僕は彼と本当によく飲んでいた。一人暮らし時代、彼は将来について色々語ってくれた。将来的にはこうして、ああするんだみたいな。当時はまだ輝かしい未来を信じていた気がする。
 けど、今は話す内容は同じだけれど、どこかで以前信じていた輝かしさを使いまわしているように見える。それ以前に、将来設計が三年前と同じなのは、三十代後半の男性として、正しいあり方なのだろうか。

 と書いて気づくけれど、人間は必ずしも正しい生き方をしないといけないわけじゃない。
 彼は手に職があって、大阪駅に電車一本で行けるところの実家に住み、友達も多い。彼女はいないけれど、夜の街で遊ぶ方法を知っている。フットワークも軽く、僕が姫路に来てから二回遊びに来てくれたし、博多に一緒に旅行したこともある。
 そして、会う度に格好良くなってる。渋さが増しているのか、ヒゲがよく似合う顔立ちになってきた。

 彼はもう今で完成しているのかも知れない。そして、それは彼の意思とは関係ないのかも知れない。
 僕から見れば、もっとこうして、ああすれば色んなことができるのに、と宝の持ち腐れのように感じる。
 ただ、それは僕のエゴで彼は彼なりに日々を楽しく過ごしている。それで良いじゃないか、と言われると、おっしゃる通りだと同意する他ない。

 もしかすると、更に三年後には、今からは想像もつかない場所に彼はいる可能性だってある。これは結婚をして、この先を姫路で過ごすことが決まっている僕からすると、手に入らない未来だ。

 僕の引っ掛かりのポイントは三十代後半の人生の先輩として、今の現状で良いのか? ということだ。僕はまだ三十三年しか生きていない。
 仮に僕が四十三歳だったら、今三十代後半の友達を見て「まだまだ全然これから何でもできるよ」と言うだろうか。
 言う気もする。だって、今僕が二十代後半の男の子と喋ったとしたら、「何でもできるね!」と絶対に言うから。何でもってなんだよ、と思うけど。

 同時に、僕は三十三歳でまだ何でもできる感覚を引きずりながら、できなくなっていく色んなものを実感しはじめてもいる。だからだろう。三十代後半の友達を前にして、できなくなっていくことがあるぞ! と言いたかったのだ。
 ただ、変な言い方になるけれど、できないことを認めればやりようはいくらでもある年代なのが三十代、四十代なんじゃないか、とも思う。僕の実感というよりは、本を読んだり、人生の先輩たちを見ていて感じることではあるけれど。

 さて。今回、僕は友達に対してモヤモヤな気持ちを抱えていたけれど、このエッセイを書くことで考えの整理ができた。エッセイを書くというのは、僕が人生を上手く生きていくのに必要な営みになっているらしい。
 そんな実感が最近はある。

 

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